夏川草介の新刊『始まりの木』 第1話まるごとためし読み!

 お亡くなりになったんですか、と言いかけて、千佳は慌てて口をつぐんだ。

 こういう事柄をあけすけに尋ねるほど千佳も子供ではない。慣れない酒の勢いにつられて出そうになった言葉をすぐに飲みこんだ。が、皆瀬の方がそれに気づいて微笑んだ。

「隠さなければいけないような話ではありません。事故があったんですよ、十年前に」

 酒杯を置いて、少しだけ遠くを眺めるように目を細めた。

「二人そろって出掛けた旅先の、空港でのことです」

 皆瀬は少し声音を落として話した。

 ある空港で長いエスカレーターに二人で乗ったときの話だった。はるか上方に乗っていた客が持っていた大きなスーツケースを倒してしまったことが事故の全てだったという。傾斜角三十度の長大な動く坂を、二十キロの巨大な塊が転がり落ちてきたのだ。後ろに並んで乗っていた数人の旅行者をひとまとめに巻き込む大惨事となった。ただ単純に荷物を倒しただけのささやかなトラブルが、目を覆うばかりの地獄絵図を招いたのだ。

 負傷者五名、死者一名。

「その一名が私の姉です」

 静かな声だった。十年という月日がようやくもたらした静けさのようだった。

「そして負傷者五名のうちの一名が、神寺郎さんですよ」

 千佳は息を呑んだ。

 その事故で、神寺郎は左足の骨を粉々に打ち砕かれたという。

「手術を受けて金属を入れれば、それなりに目立たなくできるし、少なくとももう少し普通に歩けるようになると医師には言われたようですが、あの人はそれを拒否したんです。このままでいい、とね。誰もがおかしな人だと言いましたが、私にはなんとなくわかるんですよ。姉との最後の旅の痕跡を、どんな形でも残しておきたかったんじゃないかとね」

 沈黙が訪れた。

 千佳は理解した。

 二人してあちこちを旅する中でも、古屋は絶対に飛行機を用いようとしない。どんな遠方でも鉄道であり、海を渡るなら船であった。その理由はこんなところにあったのだ。

 千佳の脳裏に、今日の昼過ぎ弘前駅に降り立った時の光景が浮かんだ。

 ホームから改札へあがるにも絶対にエスカレーターを使わない古屋。足をひきずってでも階段を登る姿……。

 千佳は胸の奥で深く嘆息した。

「あれ以来、神寺郎さんはお仕事で青森に来た時は必ずここに立ち寄ってくれます」

「必ずここに……」

 皆瀬はうなずいた。

「そうは言っても年に一度あるかないかといった程度ですが。ただここに来ると、しばらくは岩木山をひとりで眺めているんです。本当は神寺郎さん、もう一度登りたいんだと思うんですが、あの足ですからね……」

 そこまで言って、皆瀬はふいに口調を改めた。

「悲しい話をしてしまいましたね」

 皆瀬の声に我に返って、千佳は気がついた。いつのまにかかすかに視界がにじんでいる。「酒の勢いとはいえ、ついひといきに話してしまいました。せっかくの旅先だというのにすみません」

「いえ、いいんです。聞けて良かったです」

 慌てて目元をぬぐって、千佳は笑い返した。

 とても大切なものをもらった気がして、千佳は頭をさげた。

「ありがとうございます。皆瀬さん」

「真一君もずいぶん趣味が悪くなったな」

 唐突に場違いな声が飛び込んできた。

 驚いて広間の入り口に目を向ければ、言わずと知れた古屋の姿がある。

「宿の客人を、酒を使って口説いている」

 そんな言葉にも、皆瀬の穏やかさは変わらない。

「神寺郎さんが、大切な学生さんを置いていくのが悪いんですよ。だいたい姉を口説くのに『陸奥八仙』を用いた神寺郎さんらしくない指摘ですね」

「酒を使って女を口説くのは男の用いる常套手段だ。私が悪趣味だといったのは手段ではなく、相手のことを言っている」

「どういう意味ですか、先生?」

 思わぬ矛先に、千佳はむっとして答える。

 そういう険悪な視線は気にも留めず、傍に来た古屋は足下の四合瓶を見つけて、大げさに顔をしかめた。

「私のいないうちに開けるなど、悪趣味どころか暴挙だ。犯罪だ」

 言うなり腰をおろし、皆瀬の酒杯を取り上げ一息に飲み干した。

「人間の心は時とともに変わってしまう。昔は私の帰室まで絶対に酒を開けずに待っていた律儀な真一君でさえ、このありさまだ。しかし酒の味は変わらない。悪趣味と理不尽のはびこる人間社会における、ささやかな心の慰めだ」

「慰めでも理不尽でもいいですけど、悪趣味だってどういう意味ですか、先生」

 いくらか頬を染め、酔いにまかせて問う千佳に、古屋は見向きもしない。

 ただ皆瀬の注いだもう一杯を手にとって、くいとまた一息に飲み干して答えた。

「そのままの意味だ」

 古屋の態度は揺るがない。

 ゆえに千佳もまた、腹いせとばかりに手中の杯を空にした。

 窓から差し込む透明な朝日を受けて、千佳はうっすらと目を開いた。

 なかば蒲団をかぶったまま、右手の腕時計に目だけを走らせて確認する。

 朝六時。

 千佳は小さくため息をついた。

 こんな早朝に目が覚めたのは、体内時計が働いたからではけしてない。

 もともと朝は九時ぎりぎりまで惰眠をむさぼるのが彼女の日常だ。それが六時に目が覚めたのは、昨夜さんざんに古屋、皆瀬の二人と酒を飲み、部屋に帰ってくるとカーテンも閉めずに、蒲団に突っ伏したからである。

 ため息とともに最初に自覚したのは、軽い頭痛である。飲み慣れない日本酒を、古屋と張り合って飲んだ結果であることは、疑いない。要するにひどくはなくても二日酔いであった。

 とりあえず起き上がった千佳は、顔を洗って着替えを済ませると、そっと扉を押して部屋を出た。今日も一日、あの偏屈学者に付き合わなければいけないから、散歩がてら外の空気を吸って気分を入れ替えておこうという算段だ。

 もとより客が少ない上に早朝であるから、館内に人の気配は希薄である。ひんやりとした冷気が、酔いの名残を洗い流してくれるようで心地よい。静まり返った廊下を歩き、ロビーを抜け、大きなガラス戸をゆっくり押して戸外に出る。まだ夜が明けたばかりの淡い光の中に足を進めた千佳は、そのまま声もなく立ち尽くしていた。

 眼前に広がっていたのは絶景であった。

 黎明のやわらかな陽光の下、うっすらと朝霧がかかり、視界は茫洋として定まらない。まだ眠りから覚めやらぬ温泉街の向こうには、白神山地のゆるやかな稜線が白くかすかに煙っている。ときおり風がきらめいて見えるのは、透徹した朝の日差しが霧の雫に反射しているためであろうか。かすかに風が流れ、ときに光が躍る。その下で、神の住まう森といわれた原生林の幽玄の起伏が、陰影と濃淡を明らかにしつつかなたまで続いている。はるか先に目を凝らしても、空と地には境がない。

 それは光と水と土とがおりなす一個の奇跡であった。

 千佳は、しばし呼吸も忘れて見入っていた。

 古屋についてそれなりに各地を旅してきた千佳でも、この絶景は格別である。

 そのまましばし呆然と眺めていた千佳は、何気なく背後を振り仰ぐ。堂々たる岩木山が天高く視界を埋めている。その半身はいまだ夜の気配を抱きつつ、はるか頂上はすでに朝日を受けて煌々と輝いている。神妙の感はひときわ濃厚であった。

 その時、ふいに視界の片隅に人影を見とめて、千佳は思わず感嘆の吐息を止めた。

 旅館のすぐ脇に細い小道がある。

 入り口の看板には「岩木山登山道」と記されているから、その先を行けば、眼前の山の頂きに繋がるのだろう。その登山道の入り口にそびえる堂々たる巨木の下に、浴衣姿の古屋の姿があったのだ。

 古屋は、巨木の根元に立ったまま、ただじっと黎明の岩木山を見上げている。片手でステッキを握りしめ、もう一方の手を大木の幹に添えたまま、身じろぎもせず津軽富士を見つめている。

 千佳が出てくる前からそこに立っていたのだろう。それもただならぬほどの長い時間、そうして岩木山を見つめていたのだということが、なんとなく千佳にはわかった。

 彼女の心に昨夜の皆瀬の声が響いた。

『あの足ですからね……』

 心の奥がかすかに揺れた。

 あの足だから、昔妻と登った岩木山にはもう登れないのだ、と皆瀬は言っていた。

 しばらく立ち尽くしていた千佳は、ゆっくりとひとつ息を吐きだした。

 それから敢えて軽い足取りで一歩を踏み出した。

「先生!」

 張りのある声で告げれば、ステッキを突いた学者がゆっくりと振り返った。

「いつもはこの時期、霧が出てなかなか岩木山は見えないのだが……」

 独り言のようにつぶやきながら、再び山容に視線を戻す。

「今日はいつになく晴れ渡っていると思ったら、藤崎が早起きをしたのだな。道理だ」

 さっそく皮肉がこぼれてくるが、千佳はこだわらない。軽やかに歩み寄って、古屋の隣に並んだ。

「山も森も、すごく綺麗ですね」

「それだけではない。ここからは見えないが、岩木山に登れば、存外すぐそばに洋々たる日本海が見下ろせる。ここは特別な土地なのだ」

 古屋の深みのある声がそんな言葉を告げた。

「津軽の人々にとってだけではない。日本人にとって特別だといってよいだろう」

 ゆったりとした響きを持つその声に、古屋の特別な講義が始まる予感を汲み取って、千佳は耳を澄ました。

 古屋はステッキの先で軽く地面を突いてから語を継いだ。

「この地には、古代から綿々と受け継がれてきた豊かな日本の姿が残っている。そびえる山、広大な森、巨大な木々、列島の人々は太古からそれらとともに生きてきた。近代化の中で、日本中にアスファルトが敷かれ、街灯がともり、家屋が立ち並ぶようになっても、なおこの一帯には、古来の景色が、残滓となってとどまっている。宿のそばに、見上げるような巨木が、当たり前のように祀られているようにな」

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