「推してけ! 推してけ!」第65回 ◆『あなただけに許す距離』(一木けい・著)

「推してけ! 推してけ!」第65回 ◆『あなただけに許す距離』(一木けい・著)

評者=吉田大助 
(ライター)

「世界の見え方」は簡単に変わる、変えられる。


 恋をすると相手の欠点が見えなくなるし、なんなら欠点すら良いところのように見えてくる、と言う。よく言う。でもそれって恋をした時だけのことか?

 一木けいの『あなただけに許す距離』は、これまで数々の恋愛小説を手掛けてきた著者による最新短編集だ。第1編「谷底の蝶々」の主人公は、今は中学生となった息子を未婚で生み、年下の夫と一年前に結婚した「わたし」。ある朝、冷蔵庫に大事にしまっておいたサブレが勝手に食べられてしまったことに気づき、傷つく。夫の律に「このサブレ食べた?」と聞くと、「だめなやつだった?」と一言。その顔つきと決して謝りはしない態度から、付き合っていた頃はこうじゃなかったのにという記憶のスイッチが入り、夫との馴れ初めを振り返る。それは、彼とは正反対の雰囲気を持つ、かつて大恋愛した相手・音也を思い出すことへと繫がっていく。

 例えば、音也と渋谷の神泉で初めてデートをした日。武蔵境の喫茶店で働いているという音也から好きなコーヒーの味について訊ねられて答えたところ、彼から「おなじです」と言われる。面白くもなんともないリアクションだ。でも、〈おなじ。たった三文字がうれしくて、とろけそうな心地になった〉。そんな彼女自身も〈いまになって振り返ると〉という枕詞を付け、当時は音也に対する自分の見方、評価の仕方が歪んでいたと認識しているのだ。待つばかりの辛い恋をようやく終わらせ、平穏な生活を手に入れることができていたはずなのに……。彼女はこの日、危険な賭けに出る。

 第2編「卵とキウイ、あるいは跨線橋」の主人公は、十一年付き合っていながらもプロポーズをしてくれない彼氏に愛想をつかし、婚活アプリでマッチングした柊介とデートをする。そして、恋に落ちる。〈見た目が好き。匂いが好き。この二つは大抵のことを「まあいいか」にしてしまう威力を持つ〉。二人は少しずつ心の距離を近づけていったが、主人公にとって「まあいいか」とはならない事実が判明する。あなたなら受け入れられるか? 収録作中、最も驚きのある一編だ。

 第4編「パーソナルスペース −9.8cm」のヒロインの、恵比寿のライブハウスの汚いトイレすらも、彼氏と一緒にライブに来ている高揚感のおかげでキラキラして見えるという感触。乳飲み子を抱える主婦と男子高校生の束の間の逢瀬を切り取った最終第5編「星」の爽やかさと、その裏にへばりついた不穏。いずれも感情を大きく揺さぶられたが、本書を最も象徴する一編を選ぶとすれば、第3編「恋と厚顔」だろう。俳優でエッセイの仕事などもしている24歳の日菜は、10歳年上の人気イラストレーター・凜太郎との恋愛を満喫していた。ところが、恋人に求める距離感が二人はあまりにも違った。「俺の優先順位を、もう少し下げてくれない?」。凜太郎にそう言われ、日菜は関係性が壊れるほど感情を爆発させる。

 実はこの一編は、本書収録作で唯一、視点人物のバトンタッチが行われている。日菜目線で語られていた恋が、途中から凜太郎目線で語り直されるのだ。その時、何が起こるか。おそらく読者は日菜の語りを追ううちに、彼女は強烈に面倒臭い女性であり、凜太郎は別れて正解だよと思っていたはずだ。しかし、それは日菜という人物の一面的な捉え方でしかなかったということを、凜太郎の語りから理解することとなる。

 振り返ってみれば第1編の書き出しの一節には、これこそが本書全体のテーマだった、と感じられる言葉が記録されていた。

〈──紋白蝶は世界の見え方が時間帯によって違うのよ/そう教えてくれたのは、大好きな叔母だった。/──午前中は交尾の時間帯だから番う相手を探していて、花は視界に入らない。でも午後になるとお腹が空いて花の蜜を求めるようになる。つまり、急に花が見えはじめるのよ〉

 全五編は、恋愛下にいる人はいかに相手のことをいいように見るかという現象を緻密に描き出す。その描写を通して、そもそも人は「午前」の自分と「午後」の自分、その折々の自分が持っている情報や心のコンディションによって「世界の見え方」が違ってくるものなのだ、という真実を突きつけてくる。そして、「世界の見え方」は簡単に変わる、変えられるものなのだよと教えてくれる。

 優れた恋愛小説は登場人物たちの恋愛模様を通して、人間関係の本質、人生の本質を浮かび上がらせる。著者の作品で一番、刺さった。

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あなただけに許す距離

『あなただけに許す距離』
著/一木けい


吉田大助(よしだ・だいすけ)
ライター。1977年生まれ。書評や作家インタビューを多数手がける。著書に『別冊ダ・ヴィンチ 令和版 解体全書 小説家15名の人生と作品、好きの履歴書』など。

田口幹人「読書の時間 ─未来読書研究所日記─」第45回
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