西川美和「深海の船」第1回 置いてきた子供

西川美和「深海の船」置いてきた子供

終戦直後の東京を舞台に孤児となった少女の姿を描く映画『わたしの知らない子どもたち』。「STORY BOX」では、西川美和監督がその制作過程での思いなどを綴るノンフィクション・ノベル「深海の船」を連載中です。このたび映画公開を記念し、過去の作品を再掲することになりました。ぜひお読みください。


 窓の外の空は青く澄み切っていた。首都高速や幹線道路の車の通りはめっきり減って、これが東京だろうかと思うほど静かで清々しく、そして暇だった。二〇二〇年の春。世界中の人間が「何もするな」と家の中に閉じ込められた。休む間もなく働き続けたのは医療者と運送業者とスーパーの店員たちくらい。私も、制作中だった映画があと一息で完成という段階で作業の中断を余儀無くされていた。

 すべての物語は世界から拒まれたような気がしていた。劇場は閉鎖され、書店や図書館までもが扉を閉じた。宅配で送られてくる本や映画のDVDまで、致死のウイルスにまみれているような不安が渦巻いていた。自分が恐れすぎなのか、あるいはめすぎなのか、それぞれの基準は最も親しい友人や家族との間でさえずれ、緊張や亀裂が走った。

 それまでも国内に大きな自然災害のパニックがあるごとに、「フィクション」というものの存在の軽さに棒立ちになってしまう経験はあったけれど、この全世界共通の「封鎖」と「非接触」の御触れほど作り手を途方に暮れさせるものはないように思えた。この先もずっと、恋人同士の語らいの間にアクリル板が挟まったり、親子の末期の別れがタブレット越しのリモートになったり、ヤンキー同士が喧嘩けんかの前に手指のアルコール消毒を欠かせなくなったりしたら、どうやってドラマを作るんだ? 喉元を過ぎた今ではそんなたとえも冗談みたいに思えるが、その頃は確かに、人が集まれば白眼視され、絶えず犯人捜しが繰り返され、パチンコ店に並んでいるだけで石が飛んできそうな気配が漂っていたのだ。社会の通念や人の信じるものは、世界のほんのちょっとした変化で簡単に転じ、昨日まで当たり前だったことにも、怒り、切り捨て、断罪するようになるということを私たちは体験してしまった。そしてパニックが過ぎ去れば、全てが取るに足らないことのように軽んじられ、自分のとった行動さえ忘れていくのだということも。

 
 世の中が全て止まり、人間らしい活動の多くが自制されることになった。語り合わず、酒を飲まず、歌を歌わず、肌に触れもせず。それでもタダで転ぶだけには終わるまいと多くの作り手は工夫を凝らし、順応しようとした。パンデミックを逆手に取るように、出演者同士が撮影現場に出向かず、自宅で個別に演じる「リモートドラマ」なども生まれ、今のこの時の特殊性こそを記録し、物語にしようと奮起する人々もいた。が、私には、物語が見つからなかった。正確には、物語を作ることに辟易へきえきしてもいた。

 出たり引っ込んだりの緊急事態宣言下で、行動制限の波をかいくぐるようにして細切れに残りの作業をして映画を完成させ、新型ウイルスの発見から約一年後に、座席が一席ずつ空けられた劇場で五年ぶりに新作映画の初日を迎えた。
「監督、初日、満席です」
うそでしょ。ガラガラじゃないですか」
「いいえ、今はこれで満席なんです」
 舞台挨拶に登壇した出演者たちとの間には二メートルの距離が空けられていた。封切りを祝う乾杯も握手もなく、「では」と言ってマスクの顔で三々五々に散って終わった。役者と浮かれて酒でも飲んで週刊誌に載せられたりしたら、犯罪者扱いだ。

 未だワクチンは普及せず、海外渡航も厳しく制限されていた。世界中の映画祭は中止、あるいはリモート開催という手段が講じられた。「ハーイ、エブリワン。ご招待ありがとうございます。アイムベリーハッピー」などと自宅のパソコンのカメラに向かってお愛想を言いながらも、画面の向こうにどこの国のどんな顔の人々が観にきているのか、実感はなかった。

「こんなかたちでも、皆さんとつながれることをうれしく思います」──でまかせだった。つながってなんかいるもんか。クソ。なんでこんなについてねえんだ。と腹の中で吐き捨てつつも、自分だけじゃない、同じ年に完成した映画の作り手はみんな辛酸をめている。甲子園が中止になった高校球児や、修学旅行に行けない子供、同級生の顔の上半分しか知らない小学生もいるんだ、と太ももをギュッとつねった。

 脚本の執筆の始まりから数えれば、封切りまで五年が費やされていた。一作品作るのにそんなにかけるから、こんな目に遭うんだ、とも思った。もっとコンスタントに数を放てれば、これほど痛手はなかろうに──いや、子供が多ければ一人亡くしても、という道理などありえないとは知りつつも、多作の監督や、現場から現場を渡り歩ける俳優やスタッフがまぶしかった。

 
 夏の気配がしてくる頃には、延期されたオリンピックを今度こそ幕開けさせるための伏線であるかのように、緊急事態措置は続きながらも各種スポーツの会場は開けられ、「声出し応援禁止」という条件付きで観客も入れられるようになった。みなさん、スポーツはいいですよ。コロナで傷んだ人の心に勇気を与え、塞ぎ込んだ気持ちに活力がみなぎりますよ──と久方ぶりにスポーツの媚薬びやくを嗅がされれば、やっぱり反射的にかぶりつき、頭がくらくらする。うわあ、スポーツはいいですねえ。

 しかし大都市の映画館は相変わらず閉ざされたままであったり、座席数制限やレイトショーなしの時短営業を強いられたりしていた。換気システムのある暗闇の空間で、スクリーンの方をまっすぐ向いて二時間黙って座っているだけなのに、大きな金の流れを作りやすいとされるスポーツの価値とはこれほど異なるのか。全国各地の映画館は、国や自治体からの補償金では運転資金が賄いきれず、映画ファンからのクラウドファンディングや寄付が集められつつも、疲弊の色を濃くしていた。

 二〇二〇年の五月、世界中でロックダウンが敷かれていた最中に、国からの五兆円を超える文化芸術支援を決定したドイツのメルケル首相(当時)がこんな演説をしていた。

 もしかすると私たちは、こうした時代になってやっと、自分たちから失われたものの大切さに気づくようになるのかもしれません。私たちは様々な心の動きと向き合うようになり、自ら感情や新しい考えを育み、また興味深い論争や議論を始める心構えをします。私たちは(芸術文化によって)過去をよりよく理解し、またまったく新しい眼差しで未来へ目を向けることもできるのです。
 
 親愛なる芸術家の皆さん、あなた方にとっていまがとても、とても困難な時期であることを承知しています。私たちの誰もが寂しい思いをし、どれほど多くの市民たちが再びライブであなた方の芸術を体験できることを待ちわびているかを承知しています。そのときまで、私たちはできるかぎり、あなた方を連邦政府の救援プログラムを通して支援するように努めます。また、どれほどあなた方が私たちにとって大切であるかをお伝えすることも支援となりますように。

 
 補償額の大きさや支援の実効性はさておき、国の代表者がこれほど血の通った、思いやり深い言葉で語りかけるってどういうことなんだろう。その頃の私たちがつけられたのは「不要不急」という呼び名だった。ドイツは違う星にあるのか、と思うほど遠く感じた。同じように色の濃い歴史と文化を持ち、同じようにいびつな思想統制の時代を経て、戦争で失敗をし、同じように多くを失ったはずなのに。

 
 あーあ、やってらんないな。もう、映画なんかいいんじゃないか。制約だらけの状況下でも、時代の壁に挑むように撮影現場に立ち、新たにできた「衛生班」に検温と消毒をチェックされながら、マスク+フェイスシールドの完全武装でがむしゃらに撮影し続けている同業者もいることを知りながら、私はすっかりやる気をなくして寝床で低い天井を見つめていたのであった。
──俺のことはどうなったんだよ。
 ふと、暗い、薄汚れた地下のような場所から声が聞こえてきた気がした。
──なんとかする気じゃなかったのかよ。
 あらくれた口ぶりの割に、かすれもしていない透明な声。
 ああ、子供が呼んでいる。私が、手を引いて来られずに、置いてきた子供。

 
 公開した私の新作は、長期刑を終えて刑務所から出てきたヤクザ者の中年男が最後のチャンスとばかりに社会復帰を目指す話だった。原案になったのは平成二年に刊行された小説で、主人公は昭和十六年に福岡の芸者の子として生まれたが、戦後の混乱期に母親が行方をくらませてからは預け先の施設を飛び出して、親や家を失った孤児たちと共に浮浪生活をした。各地の盛り場や駅や米軍キャンプを転々としながら、かっぱらいや靴磨きや新聞売りをして生きしのいだが、非行や犯罪に染まるうちに裏世界に飲み込まれ、生涯の大半を刑務所で過ごした。

 靴磨きは、ブラシとクリームと羅紗布があればできる。数人でガード下に並んで、パンパン連れのアメリカ兵に、「ワンハンドレッド」と手を出した。百円は法外だから値切られたが、横から女が口添えして気前がよかった。浮浪児の唯一の味方は、パンパンと呼ばれる街娼だった。
 新聞売りは、主に電車の中だった。三部セットの二十円で、バラ売りはダメと厳命されていた。大人たちは施しの気持ちも手伝ってか、よく買ってくれた。
 この新聞売りのついでに、座席の羅紗布をカミソリで切り取り、靴磨きの道具にするのだ。上品な婦人に見咎められて、意趣返しに着物を切り裂いたこともある。

 
 子供時代の主人公のたどった日本の裏戦後史には強烈な魅力があった。原案の小説では実在の男がモデルとなっており、今生きていれば八十歳を超えているが、小説が刊行された平成二年、その秋に病死している。刑務所から社会に復帰してわずか四年半余り。高血圧の持病を悪化させ、一人住まいのアパートで亡くなったそうだ。終戦直後の子供時代から彼の死までをじっくり丹念に描ければ一番良いが、全てを映像として表すには膨大な時間と制作費が必要になる。私は自分の映画を映画として成立させるために、主人公の生年を原案小説の設定より二十年遅らせて、長期刑を終えて出所してからの後半生のみを現代劇として描くことに割り切った。

 戦後の焼土の上にたたずむ襤褸ぼろをまとった孤児たちの絵面は誰でもすぐに思い浮かべられるが、実際に彼らがどこからきた子供で、何を思っていたのか、どんな手段と知恵を使って生き延びたのかについて、私はよく知らなかった。そして、誰もが自分自身が食いつなぐことしか考えられなかったという時代に、彼らに手を差し伸べ、夜露をしのひさしの下に招き入れたのはどんな人々だったかについても、もっと知りたかった。が、それはまたいつかの夢だと思うことにした。けれど「いつかの夢」と一度見切ったものが叶うことは、まずない。電車の中で上品な婦人の着物の袖を迷いなく切り裂いた子供の鋭い眼光に後ろ髪をひかれつつ、別れも告げずに小説の中に置いたまま私は前に進んだのである。

 そうか。お前がいたね、と私は胸の内で声を返した。
 でも私、やっぱりお前を連れて来られるかどうかはわからないよ。
 もう語りの多くは世を去り、また、誰もが内心そろそろ忘れてしまいたいような苦しい時代の話である。しかも私の個人的興味が、巨額の制作費を回収できるほどの収益に結びつく確証はない。きっと映画にするのは無理だろう。それにもう映画なんて、半分やりたくないんだ。でも、ならばいっそ、できそうにないことでも真面目に考えてみるか。ああ、静かだ。誰も迎えにこないし、連絡もない。そうだ、始まりはいつもゼロなんだ。今ならお前を迎えに行ける気がする。まだそこにいるかい?

 応える声はもうどこからも聞こえなかったが、私は寝床から起き上がった。

 

*引用文献*
〈芸術支援は最優先事項。ドイツ・メルケル首相が語った「コロナと文化」〉訳/河合温美、藤野一夫(ウェブ版「美術手帖」)
『身分帳』佐木隆三(講談社文庫)

〈「STORY BOX」2024年8月号より〉
※次回は8月19日公開予定です。

 


西川美和(にしかわ・みわ)
1974年広島県生まれ。映画監督。2002年、『蛇イチゴ』で脚本・監督デビュー。主な作品に『ゆれる』『ディア・ドクター』『すばらしき世界』など。小説に『ゆれる』『永い言い訳』、エッセイに『スクリーンが待っている』『ハコウマに乗って』などの著書がある。映画『わたしの知らない子どもたち』は、第51回トロント国際映画祭のプラットフォーム部門に正式出品が決定。最新刊は同名の原案小説。

わたしの知らない子どもたち

『わたしの知らない子どもたち』

(palm books)


映画『わたしの知らない子どもたち』ポスター

映画『わたしの知らない子どもたち』

原案・脚本・監督:西川美和
10月16日(金)全国公開
©︎2026 K2 Pictures・AOI Pro.
公式サイトはこちら


伊藤佐凪『星の集う場所』
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