一木けい『あなただけに許す距離』

満月東京ラビリンス
9年暮らしたバンコクから東京に帰ってきて、4年が過ぎた。
帰国する前は、いろんなことが怖かった。ゴミ出しのルール、手荷物検査のない電車に乗ること、コンビニの会計方法、カフェでトレーを下げることを忘れないか。いざ帰国してみると、恐怖は別の場所にあった。
キレて暴言を吐く客。
私の知る限り、タイの人は「人前で感情的に怒りをぶつけるのは大変ダサい」と考える傾向がある。その文化に9年間浸りきって生きていたので、突然の罵倒は怖ろしかった。あらゆる面で境界を飛び越えすぎている。帰国後しばらくはカスハラする客を見る度メモしていたが、そのうちしなくなった。あまりにも毎日目にしすぎて。
そういった距離を取りたいものがある一方で、ぜひとも遭遇したい一群もある。
それは、園児たちのおさんぽ。道を歩いていて、遠くから同じ色の帽子をかぶったちいさな集団が近づいてくるのがわかった瞬間、幸福100パーセントになる。寄っていきたい気持をぐっとこらえ、適切な距離を保って見守り、曲がるべき角でちゃんと曲がる。後ろ髪を引かれながら。
帰国して4年で私は自分の目尻が下がったことを実感しているが、加齢以外にも園児たちとの遭遇がその一因だと思う。
また、好きな作家の新刊を発売日に買えることも僥倖だ。どうかしたらその前日、偶々入った書店で手に取れることもある。買えるのは明日だと思っていたそれが不意打ちで目の前に現れたときの、窒息しそうな多幸感。こういう突然の0距離は大歓迎だ。
恐怖も幸福もない、ただ驚いた、私にとっての New! な出来事もある。
客がクレジットカードの暗証番号を入力する際、店員がくるっと後ろを向くこと。
顔を背けるとか、端末に目隠しカバーがついている国は多いと思うが、店員が背を向けるまでする国は他にもあるのだろうか。
近かったり遠かったりする東京で、日本で、世界のいろんな国で、大切な相手との距離をどう測るか、育てるか、手放すか。
そんなことを考えながら、私はこの小説を書いた。
相手の要望にただ応じていると、自分の輪郭が消えていく。
自分の要望ばかり通すと、相手を辟易させる。
この物語に出てくる綺梨、凛太郎、日菜、海恩、環たちもそうやって、相手との境界線を手探りでひき、消して、またひいて、ちょうど好い距離感を探していく。
息がしやすいか、安心できるか、自分らしく生きているか、自問自答しながら。
満月の東京で迷う登場人物たちが『あなただけに許す距離』を見つけられたかどうか、読んで確かめていただけたらうれしい。
一木けい(いちき・けい)
1979年、福岡県生まれ。2016年、「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞。デビュー作の『1ミリの後悔もない、はずがない』がミュージシャンの椎名林檎に絶賛されるなど話題となる。2026年『結論それなの、愛』で吉川英治文学新人賞候補。他の著書に『9月9日9時9分』『彼女がそれも愛と呼ぶなら』『嵐の中で踊れ』などがある。




