「推してけ! 推してけ!」第63回 ◆『一角通り商店街のこと』(武塙麻衣子・著)

「推してけ! 推してけ!」第63回 ◆『一角通り商店街のこと』(武塙麻衣子・著)

評者=嶋津 輝 
(小説家)

秀でた目を借りて覗き見る


 人ごみにほとほと疲れていた時期があった。下町の観光地近くに住み、職場が都心のターミナル駅付近だったこともあり、歩道をふさぐ集団や、他人にぶつかることを厭わない通行人の群れに、自分も人ごみの中の一人であることは忘れて、うんざりしていた。歩行移動のあまりの憂鬱さに、あるとき、「一流フォトグラファーの目線でこの人ごみを見てみたらどうだろうか」と、苦し紛れの対策を講じてみた。そうしてファインダー越しのつもりで雑多な景色を眺めてみると、邪魔とか攻撃的だとしか思えなかった人々が、にわかに味わいを帯びてきた。最高の一瞬を切り取らんとする目線が捉える彼ら彼女らは、一様に生命力に満ち、被写体として魅力的ですらあった。架空のレンズを挟んだだけで景色が変わることが不思議だった。

『一角通り商店街のこと』を読んでいるとき、この体験を思い出した。小説の中で作り出された世界を、自分の目とは違う、とくべつ秀でた目線を借りて眺めているかのような錯覚に陥ったのだ。

 この作品の視点人物は、主人公である大学生の雄士である。大学進学を機に富山から上京し、アパートからほど近い一角通り商店街に通うようになり、じきにその中のとある店舗でアルバイトを始め、徐々に商店街の住人たちとの関わりを深めていく。こう書くと成長物語のようだが、そういうわけでもない。雄士ははじめからわりに老成している。この雄士がまず魅力的だ。大らかだが細やかで、物事に動じないが瑞々しさもたたえた彼は、一癖も二癖もあるものの懐は深い商店街の人々からいかにも好まれそうな、ゆったりと構えた人物である。この雄士の目線を通して、我々読者は一角通り商店街を知っていく。

 一角通り商店街では、大抵の商店街がそうであるように、大事件は起きない。だけど、何も起きないわけではない。むしろ、雄士の視界の範囲内に限定されているわりには、いろいろなことが起きている。誰かがピンチに陥ったり、誰かがそれを助けたり、誰かと誰かに確執があったり、肉親との間に何かを抱えていたりする。

 雄士は、ただの穏やかな若年寄ではない。大学三年次から八割の学生がゼミに入る中、「今なんとなく」将来に繋がる決断をすることができず、結局どのゼミにも入らないことを選ぶという思慮深さを備えている。きちんと自己と対話する人なのだ。だけど、他人のことを深読みしようとはしない。見たまま受け入れる。魅力的な雄士の目から見た商店街の人々もまた魅力的である。そこには脇役など一人もおらず、全員が主人公のような趣と存在感を放っている。それぞれの生活を、仕事を、人生を垣間見るのが楽しくて、頁をめくる手はついゆっくりになる。この世界を舐めるように味わいたいのだ。

 むろん雄士が見る世界は、作者が作り上げたものである。おそろしく視力のよさそうな作者が、この世界を立ち上がらせる手つきは機織りのように丹念である。雄士のまわりや商店街のそこここに、文字通り小さな光を当てていく。
 大学一年のころの雄士が、この前までは存在も知らなかった友人と大声で笑い合うたびに感じる「眩しさ」や、立ち飲み店の戸から酔っ払いとともにあふれ出てきた店内の賑わいや匂いがもたらす「明るさ」といった、私たちがふだん見逃してしまうような一瞬の光を、作者はちゃんと言葉にして提示してくれる。ああそういえばそんなときに人は明るさを感じるかもしれないと気づかされるたび、小説っていいなとしみじみ思う。

 読み終えたあと、この世界に入った自分の姿を想像した。
 この商店街に行ってみたいというより、この世界の中に紡ぎ出されてみたいと思った。図々しい話だが、作者は私の予想よりはるかに味わい深く私を描いてくれるだろうと、手前勝手に想像しては照れたりした。たまに商店街に現れる不愛想な客あたりが似合いの役どころだろうが、作者は雄士の目線を通して全員を主人公のように書いてくれるから、想像のしがいもあるというものだ。

 この文章を書くためにふたたび本書の頁をめくったら、「おにぎり徳ちゃん」で雄士が読み上げるおにぎりのメニューの中の、「焼きたらこ」「鶏そぼろ」「卵黄醬油漬け」の三つが丸で囲ってあった。鉛筆でメモを取りながら読んでいたのだが、どうやら私は自分が頼みたい具を選び出していたらしい。
「おにぎり徳ちゃん」は全十四話の中の三話目なので、私は初読の序盤から世界に入り込んでいたようだ。幸せかつ充実した読書体験で、機会をみてまた潜り込みたい、願わくば続きも読みたい、と思う。

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一角通り商店街のこと

『一角通り商店街のこと』
著/武塙麻衣子


嶋津 輝(しまづ・てる)
1969年東京都生まれ。2016年「姉といもうと」で第96回オール讀物新人賞を受賞。19年、同作を含む短編集『スナック墓場』(文庫化時『駐車場のねこ』に改題)でデビュー。2026年『カフェーの帰り道』で第174回直木三十五賞を受賞。著書に『襷がけの二人』など。

武塙麻衣子『一角通り商店街のこと』
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