『電車のおじさん』刊行記念対談 辛酸なめ子 × 田村セツコ

『電車のおじさん』刊行記念対談 辛酸なめ子 × 田村セツコ

 スピリチュアルほか多彩な分野で健筆をふるい、アート活動でも知られる才人・辛酸なめ子さんが新刊『電車のおじさん』を発表しました。ご自身にとっては久しぶりとなる長編小説。電車で偶然出会った個性的なおじさんをストーキングして、妄想に興じるOLを、ユーモラスに描いています。本作の刊行を記念して、辛酸さんとイラストレーターの田村セツコさんの対談が実現しました。ガーリーカルチャーの最前線で長く活躍するおふたりは、旧知の関係。醸成の深まった妄想恋愛作法は、必読です。


探偵小説のイメージから始まった物語

──辛酸さんが『電車のおじさん』を執筆されたきっかけは、田村さんのアドバイスだったそうですね。

田村
 アドバイスというほどでもありませんよ。2~3年前になめ子さんと、小学館の担当編集者さんと3人で、お食事会をさせてもらいました。そのとき担当さんから、なめ子さんに小説の新連載をお願いしようとしていると聞きました。

辛酸
 すると田村さんが、「ミステリーがいい!」と言われたんですよね。

田村
 そうそう。「少しとぼけた女の探偵が、次々と事件を解決していく話って、どうでしょう?」と、なめ子さんに提案してみたんです。

辛酸
 探偵を主人公にしたミステリーは、私も面白そうだなと思いました。でも自分にミステリーを書く素養がないので、どうしようかなと悩みました。緻密な伏線と回収とか、私には無理っぽい。けれど探偵みたいに他人の秘密を探っていく、普通の女性の話なら、いけそうだなと。謎は解決できないけれど、他人を追跡しながら妄想を働かせて、何かしら自分なりに問題を解決していく、どこにでもいる女性を描いてみようと考えました。

田村
 今日の対談の前に、『電車のおじさん』は読ませていただきました。主人公の玉恵さんのキャラクターが、本当に素敵ですね。OL生活の憂鬱な心理描写が、とってもリアル。他人を観察する視線も深い。この人の目には、きっとプロの探偵も敵わない! と思いました。最初に「ミステリーがいい!」と言った私だけど、いい意味で期待を裏切られて、個人的にすごく満足のゆく小説でした。

辛酸
 ありがとうございます。

田村
 玉恵さんが男性のシャツの感じから、生活レベルを推測するところとか、『シャーロック・ホームズ』みたい。彼女の的確な分析には、ワクワクしました。

辛酸
 玉恵のキャラクターに関しては、やはり田村さんの初めのアドバイスが、頭に残っていました。探偵小説のテイストは、意識していたんだろうと思います。

田村
 ストーリーは、どうやって練っていったんですか?

辛酸
 全体の構想は、主にノートにまとめていました。設定を書いているうちに、忘れてしまいがちなので、本当は Excel とかできちんと管理した方がいいのかもしれませんが、私はノートに取っておくのが向いていました。
 構想の始まりは、玉恵と同じ、電車での実体験です。前に電車で、知らないおじさんに怒鳴られたことがありました。そのときは「何だこの人は?」と、怒りを感じました。でも後になって「彼にも怒鳴りたい事情があったのかもしれない」「普段は優しい人なのかもしれない」と、想像してみたんです。それで怒りが治まるわけでもないのですが、おじさんを少しは理解できるかもしれないと思いました。

辛酸なめ子さん


 以前『男性不信』という小説を書いたことがありますが、女子校や姉妹で育ったこともあり、男性はいつもミステリアスな存在でした。とくにおじさんは、考えていることがわからなくて謎めいています。思春期から20代くらいはおじさんへの苦手意識があったのですが、最近はおじさんのなかにも変わらない少年性を見出したり、知識の豊富さだったり、徐々にポジティブな印象になってきました。世の中的にも、おじさんのイメージが良くなったり、いたわりの思いが高まれば良いなと思って、物語をつくっていきました。
 いま日本の国民の平均年齢は、47歳前後だと言います。普段の生活のなかで、出会う男性の多くは、若い人よりもおじさんです。おじさんばかりの国で生きていくのに、おじさんとうまくやっていけないのは、辛いですよね。苦手意識をなくして、平和におじさんと向き合って暮らしたい。そういう願いもこめた作品です。

絶妙に枯れたおじさんが魅力的

田村
 世のおじさんって、いろんなバリエーションがありますよね。よく遭遇するのは、格好が個性的なおじさん。私の主宰している絵の教室の生徒さんは以前、小田急線の車内で、レオタード姿のおじさんを見たって言ってました。

辛酸
 本当ですか?

田村
 また、別の生徒さんはチュチュを穿いてパンツが丸見えのおじさんを、電車のなかで見かけたことがあるそうです。

辛酸
 そんな感じの人、私も見ました! ちょっと若い人ですよね。

田村
 なんか、顔の四角い、初老の男の人だったみたい。

辛酸
 じゃあ違う人ですね。私が見たのは駅の券売機のところで超ミニスカでパンチラしている男性です。ミニスカやチュチュが好きなおじさんって意外といるんですね。スースー感がいいのでしょうか。

田村
 服装の変なおじさんに出会ったら、ちょっと驚くけれど、不愉快じゃないの。何というか、彼女は励まされた気がしますと言ってました。自分は、まだまだ甘いと(笑)。

辛酸
 なるほど、「自由でいいんだ!」と。たしかに他人の目に縛られていない感じは、励まされます。

田村
 望んでやっていることのはずだから、ご本人は満足なんですよね、きっと。

田村セツコさん

辛酸
 周りに格好いいとか思われなくても、自分の着たい服を着ている。純粋ですよね。そうやって理解すると、おじさんという存在が憎めなくなってきます。

──玉恵も最初は、電車でおじさんに怒鳴られますが、彼の内面を妄想することで理解を寄せます。それどころかだんだん癒やしの存在へと変わり、むしろおじさんに会いたくなっていきます。

辛酸
 なぜなのか、私にもよくわかりません。玉恵はおじさんをストーキングして、彼の生活の片鱗を見ます。そこで人生のストーリーを勝手に妄想するうちに、情が移っていったのかもしれないです。離れて暮らしている父親と重なって、優しい一面を知り、第一印象からのギャップで好感度が高まってしまったとか、いろんな理由は想像できます。

田村
 おじさんの後をつけていくと、文房具屋さんに寄るとか、彼の品の良さが所々に表れていますね。享楽的じゃなく、ストイックでお行儀が良い感じ。

辛酸
 民度は、低いわけではないですね。

田村
 また絶妙に枯れている感じにも、惹かれます。こういう適度に枯れたおじさん、私は大好き。

辛酸
 独特の可愛らしさがありますよね。逆にギラギラしたおじさんって、怖いです。

田村
 わかる。私以外の読者も、このおじさんが、読んでいるうちに「推し」になっていきますよ。

辛酸
 好意的に受け入れてもらえたら、嬉しいです。

田村
 玉恵さんのおじさんへの感情は、きっと恋心ではないのだけれど、ふたりのやりとりには、胸がドキドキします。玉恵さんとおじさんは電車での一件以来、偶然に出会うたびに、玉恵さんの方の思いが深まっていきます。会社の人間関係のストレスで重くなった玉恵さんの心が、おじさんへの妄想によって、ちょっとずつ軽くなっていく。すごく素敵な展開だなぁと思いました。現代ならではの、プラトニックなラブストーリーです。

欲望に迷走するおじさんたちの愛らしさ

──玉恵はおじさんとの出会いを楽しむ一方、会社の同僚など、出会った男性との妄想上の恋愛を繰り返しています。

辛酸
 玉恵はリアルの恋愛を体験したいという欲求が、それほど高まっていないのでしょう。妄想で楽しむのが安全だと考えているフシもあります。社内とか、狭い人間関係のなかで恋愛をすると、何かと面倒ですからね。気になる人とリアルでは触れ合っていない。けれど妄想のなかで恋の喜びは得られるから、それで充分。傷つかないための自衛手段というより、恋愛離れが指摘される、いまの若者たちに共通している感覚ではないでしょうか。

田村
 妄想のプラトニックラブって、幸せなんですよね。私も19歳のとき、神保町の老舗文房具店で出会った男性店員の方に、ずっと憧れていました。私のような新人の画家にも、すごく紳士的に対応してくださったんですね。あのときを思い出すたびに、幸せな気持ちになります。
 30年ほど前に、文房具店を覗いてみたら、その店員の方は、まだいらっしゃいました。「ああ、お元気だ!」と嬉しくなっただけで、話しかけたりしていません。遠くから思うだけって、ロマンチックですよね。いまでも、あの男性を慕う気持ちは変わっていません。

田村セツコさん

辛酸
 紳士的というのが、重要ですよね。

田村
 そうそう。野暮ったいとか、粗暴なおじさんは、あんまりね。

辛酸
 ちょうどよく枯れている男性は、強い煩悩から解放されていて、いいですよね。玉恵と出会うおじさんは御朱印集めしたり、趣味のこだわりを語ったり、微妙に煩悩から解放されていません。妄想恋愛の相手となる男性たちも、まだ若いだけに欲は盛んです。枯れている途中のおじさんたちの、いろんな迷走っぷりを描きながら、丸裸の愛せる存在になればいいなと思いました。

田村
 玉恵さんの男性たちへの感情は、母性的なものもあるかも。女の人は若くてもお年寄りでもみんな、母性愛を持っています。迷走している男の人は、拒否するのではなく、母のように包んであげたいんです。

辛酸
 出産しなくても、女性には多かれ少なかれ母性はあるのでしょうか。

田村
 たぶん、備わっていると思いますよ。

妄想を手放してリアルの体験と向き合う

辛酸
 玉恵はしばしば男性に不愉快な思いもしますが、男性を断罪したりとか、誰も悪者にはしないよう、心がけました。物語はポジティブでありたい。ある小説読本のなかで、登場人物をひどい目に遭わせれば物語は面白くなると書かれていましたが、私はできそうにないです。悩んだり、迷ったりはするけれど、最後はポジティブに向いていく。そんなシンプルな話を、書きたいと思っています。

田村
 時代はすごい勢いで変わっていますが、シンプルなものの強みは変わりません。私は出版業界の数十年の変遷を、けっこう見てきた生き字引みたいな人間だから、よくわかります。私をぜひ浦島セツコと呼んでください。

辛酸
 いえいえ。田村さんはお歳を重ねられても、ITなどテクノロジーに、きちんと対応されているので尊敬します。

田村
 いえ、ぜんぜんダメです。頭のなかは締め切りを気にしている程度で、3つぐらいのことしか考えてません。シンプルでいれば、つまらない欲とか、周りの変化に惑わされることもなく、幸せに過ごせるかも? なんて。

辛酸
 お若くいらっしゃる秘訣ですね。勉強になります。

辛酸なめ子さん

──玉恵の周りのおじさんたちは自己顕示欲や色欲、名誉欲など、いろんな欲に振り回されています。玉恵自身も妄想を楽しむ一方、本心からは満たされません。人は幾つになろうと、己の欲をコントロールするのは難しいと気づかされる小説です。

辛酸
 女性でも男性でも、煩悩だったり、いろんな欲望から、なかなか逃れられません。心を乱される欲と付き合うのに、妄想は便利に使えます。でも妄想に頼ってばかりでは、何も解決しません。『電車のおじさん』は、欲を手放すことの難しさや、妄想から離れる大切さを描いています。私のなかでは、〝手放す〟をテーマにした小説です。
 妄想って、面白い。面白いんだけど、それだけで大量のエネルギーが消費されます。頭のなかの処理能力が落ちるのに、何も生みだしていない。スマホで重いデータを扱いながら、別のテキストファイルを無理やり立ち上げようとしているような状態です。以前はずいぶん妄想で楽しんだのですが、頭のデータ容量を取られすぎて、これは不健康だなと気づき、いまは妄想を手放していくようにしています。
 ある専門書によると、妄想を繰り返していると、人の脳は妄想世界の出来事だけで、リアルの体験と同じように満足してしまうそうです。例えば片思いしている異性との妄想が高まると、脳は「恋が叶った」こととして処理するのだとか。相手に告白したり、好意を得ようときれいになる努力を、しなくなってしまうらしいです。
 過ぎた妄想は、願っていることを実現するための意欲を、阻みます。妄想しているうちは、人として成長しないんですね。私自身を省みて痛感します。
 玉恵ぐらいの若い女の子は、いちばん妄想がはかどる年頃だと思いますが、いつまでも妄想に逃げていたらいけない。執着やら思いこみなど、エネルギーを無駄に使い減らすものを手放して、リアルを大切に生きていこう、という私なりのメッセージをこめています。

田村
 物語の最後に、電車で出会ったおじさんの現実が、はっきりします。あそこで玉恵さんの、おじさんに向けた言葉に、愛が広がっていって本当に素晴らしいです。感動的で、何度も読み返しちゃいました。

辛酸
 ありがとうございます。田村さんの言葉がきっかけで『電車のおじさん』は生まれました。感謝しています。

田村
 そんな! こちらこそ光栄です。ロマンチックでミステリアスな、私の大好きなラブストーリーを読ませていただきました。電車のなかで読んだら笑いが止まらなくて。恋愛しないと、仕事がはかどりますって、ウケました(笑)。

辛酸
 嬉しいご感想です。

田村
 大きな謎解きはなくても、緻密なミステリー小説に通じる、人の深みが描かれています。とっても新鮮な小説。掛け値無しに、傑作だと思います。


【好評発売中】

電車のおじさん

『電車のおじさん』
著/辛酸なめ子


辛酸なめ子(しんさん・なめこ)
東京都生まれ。漫画家、コラムニスト、小説家。著書に『辛酸なめ子の世界恋愛文學全集』『大人のコミュニケーション術 渡る世間は罠だらけ』『スピリチュアル系のトリセツ』『女子校礼讃』ほか多数。

田村セツコ(たむら・せつこ)
東京都生まれ。高校卒業後、銀行OLを経てイラストレーターの道へ入る。1980年代にイラストを描いた『おちゃめなふたご』シリーズがロングセラーに。サンリオの『いちご新聞』では1975年創刊以来、現在も〈イラスト&エッセイ〉を連載中。『おちゃめな老後』『孤独ぎらいのひとり好き』『おちゃめ力宣言します! いろいろな悩みや不安もハッピーに解決!』ほか著書多数。

辛酸さんと田村さん

(構成/浅野智哉 撮影/宇佐美亮)
「WEBきらら」5月号掲載〉

辻堂ゆめ「辻堂ホームズ子育て事件簿」第2回「赤ペンが好きすぎる」
蛭田亜紗子さん『共謀小説家』