辻堂ゆめ「辻堂ホームズ子育て事件簿」第2回「赤ペンが好きすぎる」

辻堂ホームズ子育て事件簿
準備万端で挑んだ出産には、
大きな誤算があって……。
人気作家の子育てサバイバル!

 2021年4月×日

「赤ちゃん」とはいつまでを指すのか、ふと気になって調べてみた。

 どうやら正確な定義はないらしい。生後28日未満を新生児、それ以降の0歳児を乳児、1歳から小学校入学前までの子どもを幼児と呼ぶことだけが、母子健康法で決まっている。新生児と乳児を赤ちゃんとする説もあれば、法律上の定義にかかわらず、自力で立てるようになったら赤ちゃん卒業、とする説もあるようだ。とすると、現在1歳2か月で、一応一人で立てなくもない娘は、すでに赤ちゃんではないということになる。

 そんな娘の赤ちゃん時代を、忘れないうちに振り返ってみたいと思う。

 2020年1月、妊娠中にできうる限りの原稿を片付けてから満を持して出産に臨んだ私は、とある誤算に気がついた。

 原稿の提出さえ終わっていれば、2020年は自動で本が刊行されるから子育てに集中できると、なぜだか勝手に安心しきっていた。しかしそうではない。原稿を書き終えた後、作品が世に出るまでの間には、大事な作業が発生する。

 そう、ゲラだ。

 ゲラというのは業界用語で、試し刷りのことを指す。提出した原稿が、本番のフォントや文字組みで綺麗に印刷され、私の手元に戻ってくる。そこに書き込まれた校閲や編集者による赤字や指摘をチェックして、作家側でも赤字を入れ、編集者に送り返すのだ。

 妊娠中の私はよほど焦っていたようで、それぞれ別の出版社に3本もの長編原稿を提出していた。産後間もないうちに、それらがすべて、美しいゲラに姿を変えて、私の手元に舞い戻ってきた。

 うーん、バカだなぁ、私。

 そんなことをつくづく思いながら、3本のゲラと格闘する日々が始まった。

 左手に娘。右手に赤ペン。娘がぐずったら立ち上がって揺すり、大人しければそっと座る。その間も、赤を入れる右手は意地でも止めない。だって〆切が近いから。

 不思議なことに、娘は新生児のときから、ゲラ作業に興味津々だった。最初はひたすら、私が動かす赤ペンを目で追う。もう少し月齢が大きくなってくると、私の膝に座ったまま、一生懸命赤ペンに手を伸ばそうとする。つかまり立ちができるようになってからは、テーブルの上に置いていた赤ペンをわざわざ引きずり下ろして口に入れる。グリップの部分をぬちゃぬちゃと噛む。喉を突いたら危ないからとすぐに取り上げると、それはもう、火がついたように泣く。


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「辻堂ホームズ子育て事件簿」アーカイヴ

辻堂ゆめ(つじどう・ゆめ)

1992年神奈川県生まれ。東京大学卒。第13回「このミステリーがすごい!」大賞優秀賞を受賞し『いなくなった私へ』でデビュー。2021年『十の輪をくぐる』が第42回吉川英治文学新人賞候補となる。他の著作に『コーイチは、高く飛んだ』『悪女の品格』『僕と彼女の左手』『卒業タイムリミット』『あの日の交換日記』など多数。

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