柚月裕子さん『検事の信義』

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筋を通す男たち
著者近影(写真)
柚月裕子さん
イントロ

『孤狼の血』や『盤上の向日葵』などで己の信じる道を進む男たちの命運を書き継いできた柚月裕子が作家デビュー10周年記念作品として、〈佐方貞人シリーズ〉の第四作『検事の信義』を発表した。柚月作品史上もっとも〝ブレない〟男が突き付けてくるのは「正義」と「信義」の違いだ。


 平成一〇年一二月、法廷に立った検事が住居侵入および窃盗で起訴された被告人に対し、無罪の論告(検察官が裁判官に、被告人に対して無罪の判決を出すよう要請すること)をおこなうシーンで第一編「裁きを望む」は幕を開ける。日本の刑事事件における裁判有罪率は九九・九%とされるため、異例中の異例となる。その異例の判断を下した男が、米崎地検の検事・佐方貞人だ。物語はその後、無罪論告に至る経緯を振り返りながら、事件の裏にある意外な真実に迫っていく。

「これが事実です、これが証拠ですと並べられた情報をデータとして取り込んで、主観を排して分析したうえで論告を下すというスタンスもあると思うんです。でも、そのやり方であれば極端な話、AIに機械的に処理させれば済む話じゃないですか。人が人を裁く意味は、情報としては表れていない当事者たちの感情に想像力を働かせるところにあるんじゃないか。佐方が何度かつぶやく〝事実と真実は違う〟という言葉には、私自身のそんな思いを込めているんです」

 第二編以降も佐方は、真実を求めて動く。警察から上がってきた一件記録(事件記録)に疑問を抱いたなら、ワトソン役の検察事務官・増田を伴って、自ら再捜査に乗り出すこともある。この行動も、検事としては極めて異例だ。

「検事の方々の仕事を調べていく過程で実感したことなんですが、私たちが想像する以上にみなさん多忙なんです。一人が数十件もの案件を抱えていて、デスクにいる時は常に書類を読み込み、一日に何件もの公判に出なければいけない。費やせる時間と注げる熱量が限られているという現実を前に、一〇〇%悔いなく決裁印を押せる案件は果たしてどれくらいあるのか。他の職業の方々と同様、後悔と満足を行き来しながら日々を過ごしているのではないか。時間に追われている様子や多忙さを描かずして、検事の仕事をリアルに表現することはできません。そして多忙さをきちんと描くからこそ、〝これは〟と思った案件があれば自ら動く、佐方の行動が光ると思うんです」

 そうした行動の裏には、譲れない信条がある。「罪はまっとうに裁かれなければならない」。己の振る舞いが、検察の信頼を損ねかねない問題判決(被告人の無罪もしくは求刑よりも大幅に減刑された判決)に繋がると分かっても、佐方は躊躇しないのだ。

「佐方はブレないキャラクターなんですよ。そんな佐方が許されているのは、上司である公判部副部長の筒井が、〝俺がお前の責任を取る〟と言ってくれているからです。もしかしたら読者さんの中には、〝佐方みたいな部下は欲しくない!〟と感じる方がいるかもしれません(笑)」

弁護士を検事に変えた だからこそ描けたもの

 デビュー直後に発表した長編『最後の証人』は、平成二二年にホテルの密室で起こった刺殺事件を巡る法廷劇だった。その作品において主人公の佐方は、いわゆるヤメ検、検事を辞めて弁護士に転身した経歴の持ち主だった。

「弁護士でありながら、検察の事情も知っている設定にした方が面白いのではという判断でした。この一冊で終わるつもりでしたし、シリーズ化を考えていたわけでは全くなかったんです」

 しかし、好評を得て続編執筆の依頼が舞い込んだ。熟慮の末に、時間軸を巻き戻し佐方の検事時代を書いていこうと決める。のちに第一五回大藪春彦賞に輝いた『検事の本懐』は、米崎地検に任官した新米検事・佐方の物語だ。

「法律や司法制度にはまったく詳しくなかったので、小説のために調べてみて初めて知ることが多かったんです。例えば、弁護士と検事の仕事の大きな違いは、法的効力を持っているか否かです。検事が〝参考人として話を聞きたい〟と言えば、その人は基本的には受けなければいけない。弁護士はあくまで個人的なお仕事ですから、同じようなお願いをしても、そこに法の効力がないんです」

柚月裕子さん


 弁護士は自らが一国一城の主となる、自由業だ。対して検事は、法務省に所属する国家公務員である。

「分かりやすい言葉で言えば使命感となりますが、検事のみなさんは、権力を持っているからこそ背負うものがある。力を持つからこそ悩みが大きい、その姿はぜひ描いてみたいと思いました。それに、組織と個人という関係性の中で起こる摩擦を描けたのは、検察庁の内部で上層部からプレッシャーを受けながら仕事せざるを得ない、検事・佐方だったからだと思います」

 ブレない佐方も少しずつ変化し、成長していく。
 その要素がよく出た一編が、本書収録の第三編「正義を質す」だ。佐方は自らの決断によって、清濁合わせ飲む、という言葉の意味を知る。

「佐方の人間らしさが描けたエピソードになったのかな、と思います。第一作の『最後の証人』で描かれる姿が、時系列的には一番歳を重ねた佐方ですから、人格としてはある種の完成形なんですね。佐方の心の奥底にあるものは変わらないんですが、二〇代後半の佐方はまだまだ青いところが残っている。そこからどう成長していくか、何が変わって何が変わらないかを描くのが、このシリーズ特有の難しさであり面白さでもあるんです」

法的な正義とは違う個人的な信義や仁義

 本書は第三作『検事の死命』以来、六年ぶりの新作となるが、実は昨年中に刊行される予定だった。

「待ってくださっている方々に、満足していただけるお話が書けるんだろうか。シリーズものならではのプレッシャーを感じ、筆が止まっていました」

 ブレイクスルーとなったのは、題材との出合いだ。最終第四編「信義を守る」は、一人息子が高齢の母を手にかけた、介護殺人の裁判に佐方が臨む。

「介護を必要とする人は年々増加しているにもかかわらず、体制や法整備が全く追いついていません。その結果、介護を引き受けた親族が追い詰められ、悲しい事件が引き起こされるようになった。今取り上げなければいけない、誰もが関心を抱くべき社会問題の一つだと思い、介護に関わる小説を書きたかったんです。あらかじめ佐方の存在があったわけではないんですよ。介護に関する資料を読み、取材を進めていったところで、『信義を守る』の核となる事件が思い浮かんだ。そこで自然と〝この事件を裁くのは、佐方なんだろうな〟と発想が繋がっていったんです」

 それは、なぜか?

「どんな事件であれ、背景には当事者たちのさまざまな思惑があることは間違いありません。その中でも介護殺人は、あまりにも複雑に思惑が絡み合っている。親子それぞれの人生に加え、共に生きてきた何十年という時間を踏まえて起きる事件だからです。その時間の厚みに分け入っていくには、書き手である私自身にとっても、佐方という同志が必要だったように思うんです」

 真実を掴んだ佐方は、検事としての一線を越えるような論告をおこなう。

「ここまでのことをやって、検事でい続けるというのはなかなか難しいだろうなと思います。上司の筒井も、もう守り切れないんじゃないか。次はおそらく、佐方が検事を辞める話を長編で書くことになると思います」

 シリーズ最大の爆風を放つこの一編のタイトルに、作家は「信義」の一語を当てた。その一語は、悪徳警官を描く『孤狼の血』に刻まれた「仁義」とも共鳴する。

「正義とは客観的で法的なものであるとすれば、信義や仁義はもっと個人的なものです。法的にどうとかではなく、自分の価値観や道徳観、人生で培ってきた人間性に則ったうえで、正しいと思えるか否か。今どき流行らない言葉を使えば、筋論ですね。筋を通すか通さないか、そんなことばっかり考えているから、私が書く登場人物たちは面倒臭い人ばっかりになる(笑)」

 だが、正義と信義・仁義の狭間で揺れ動く主人公たちの姿に、読者はきっと共鳴しているのだ。

「ブレない佐方も、自分を疑うということは決しておろそかにしていないんです。何かを信じるからには、同じくらいの強さで、その何かを疑うこともしなければいけない。命の尊さを知るためには、命の儚さを知らなければならないからです。恋愛の素晴らしさは、恋愛の辛さを知らなければ、本当の意味で分かったとは言えないから。もしかしたら私は小説を書きながら、疑って信じて、信じて疑ってという行為を登場人物たちと繰り返し、自分にとっての〝正しさ〟とは何かを探し続けているのかもしれません」
 


検事の信義

角川書店 本体1500円+税

任官5年目の検事・佐方貞人は、認知症だった母親を殺害し逮捕された息子・昌平の裁判を担当することに。昌平は介護疲れから犯行に及んだと自供、事件は解決したかに見えたが──(「信義を守る」)。「佐方貞人」シリーズ最新刊。


 

著者名(読みがな付き)
柚月裕子(ゆづき・ゆうこ)
著者プロフィール

1968年岩手県出身。2008年「臨床真理」で第7回「このミステリーがすごい!」大賞を受賞しデビュー。13年『検事の本懐』で第15回大藪春彦賞を、16年『孤狼の血』で第69回日本推理作家協会賞(長編及び連作短編集部門)を受賞した。他の著書に『最後の証人』『検事の死命』『パレートの誤算』『慈雨』『盤上の向日葵』など多数。

〈「STORY BOX」2019年7月号掲載〉