上村裕香『ほくほくおいも党』

ほくほくおいも党は、フィクションです。
いまでも、覚えている光景があります。
18歳の誕生日でした。平日の夕方で、陽がたっぷりと差していました。実家の県営住宅の、玄関に一番近い部屋がわたしと母の寝室でした。布団を畳むと日焼けしていない畳があらわれ、青臭いにおいがしました。傷んだ箇所から藁が飛び出していました。
「座って」
と言われて正座をすると、脛のあたりがチクチクしました。
「裕香ちゃん、誕生日おめでとう。これ、入党申請書」
父の部下で、30代くらいに見える男性が、わたしの向かいに正座して紙を差し出しながら頭を下げました。父はわたしが生まれるずっと前から左翼政党の党員で、専従者でした。
大人の、男の人の土下座を見たのは、それが最初で最後です。あるいは、その記憶は間違っていて、彼は入党申請書のどこかを指すために前屈みになっただけかもしれません。わたしはその状況に戸惑い、愛想笑い100%で「え~」みたいなことを言いました。名前を書かないとこの場から解放されないこと、書かないと父が怒ることだけ、わかっていました。父は瞬間湯沸かし器タイプの怒りっぽい人で、せっかちで、一番不機嫌になるのは「自分の思い通りにいかないとき」です(ただし、外での人当たりはよく、政党や地域の方々には好かれています。政治家って感じ!)。わたしは畳の上で名前を書き、ハンコを押しました。土下座みたいな姿勢だ、と思ったのを覚えています。
この度刊行する小説『ほくほくおいも党』には、この体験をベースにしたシーンが登場します。主人公の千秋は左翼政党員の父と親子の会話ができないと悩む高校3年生。兄は父の選挙活動が原因でいじめられ、引きこもりに。18歳の誕生日、千秋が父に言われて党の事務所に行くと、政党員の岩崎さんに「入党申請書」を差し出され……。
お気に入りのシーンなのですが、校閲さんからこんな指摘が入りました。
「ハンコは押さないのでは?」
丁寧に参考資料もつけてあります。アレ……!? わたしの記憶は一体……? そうなると、あの土下座の記憶も信用できなくなってきます。どこからウソなんだ、入党申請書は……父の職業は……。なんて。
『ほくほくおいも党』には、わたしにとっての『ほんとう』を書きました。それは実体験だとか、そうでないとかいう話ではなく、もっと深いところにある『ほんとう』です。作者と主人公はイコールではないですし、ほくほくおいも党なんて政党は存在しないし、この小説はフィクションですが、読んだらきっと、この世界の『ほんとう』の輪郭に触れます。よろしくお願いします。
上村裕香(かみむら・ゆたか)
2000年佐賀県佐賀市生まれ。京都芸術大学大学院在学中。22年、「救われてんじゃねえよ」で第21回「女による女のためのR-18文学賞」大賞を受賞。25年、受賞作を表題とする短編集を刊行。