吉川 凪『世界でいちばん弱い妖怪』

吉川 凪『世界でいちばん弱い妖怪』

キム・ドンシク、悪魔と取り引きした作家


 世界でいちばん弱い、白いピラミッドみたいな妖怪が突然、空き地に出現したように、ベストセラー作家キム・ドンシクは韓国の出版界に突如として現われた。

 少年時代のキム・ドンシクは小説などほとんど読まず、ゲームだけを楽しみにしていたという。将来の夢も希望もなく、中学校すら中退した。ソウルの鋳物工場で働いていた時、新たに購入したスマホに「今日のユーモア」というオンラインコミュニティのアプリがプリインストールされており、〈恐怖〉というテーマでは体験談のほかに、「創作」と銘打って自分の考えた話を書いている人もいた。ふと自分にもできそうな気がしたので書いて投稿してみると、「面白い」という感想が多数寄せられた。人に喜んでもらえるのがうれしくて、それからはせっせと投稿したが、三日に一篇のペースで奇想天外な話がアップされるから、数人のグループが外国の話を翻訳しているのだろうという噂が立ったそうだ。彼が文章の書き方など全然知らないと正直に告白すると、他の人たちが綴りや文法の誤りを指摘し、別の表現を提案してくれるようになった。その忠告をすべて受け入れ、ネットで文章の書き方を検索しているうちに文章も上達した。それが本になって売れたというだけで、当時のキム・ドンシクは小説を書いているという意識など毛頭なかったし、文学だの文壇だの、最初からまったく関係ない。

 彼の作品を、どう呼ぶべきか。ショートショート? 超短篇? 平易な言葉で書かれた短くシンプルな作品は、寓話のようでもある。原書は二〇一七年に出版されているから新型コロナ流行の前に書かれたものなのに、「額に手を当てろと言うエイリアン」など読むと、ワクチンやマスクの義務化に関する議論をふと思い浮かべてしまう。数年後に読んだら、たぶんまた別のことを連想するのだろう。

 今のキム・ドンシクは十冊の作品集を持つ人気作家だが、あの時、ふと思いついて投稿していなければ、彼は自分の才能に気づかないまま、今も工場で黙々と、溶けた亜鉛を型に流し込んでいただろうか。いや、そうではなく本当は、彼自身が自分の書いた作品の主人公だったのだ。本書に収録された「新米悪魔との取り引き」の主人公のように、悪魔と取り引きして文才をもらった後、記憶を失ったに違いない。そうでなければ、こんなに人を楽しませながら人間の醜悪な本質を暴いて見せる芸当など、できるはずがないのだから。

 


吉川 凪(よしかわ・なぎ)
大阪生まれ。仁荷大学国文科大学院で韓国近代文学専攻。文学博士。著書に『朝鮮最初のモダニスト鄭芝溶』『京城のダダ、東京のダダ──高漢容と仲間たち』、訳書としてチョン・セラン『アンダー・サンダー・テンダー』、チョン・ソヨン『となりのヨンヒさん』、崔仁勲『広場』、李清俊『うわさの壁』、キム・ヘスン『死の自叙伝』、朴景利『完全版 土地』などがある。金英夏『殺人者の記憶法』で第四回日本翻訳大賞受賞。

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世界でいちばん弱い妖怪

『世界でいちばん弱い妖怪』
著/キム・ドンシク
訳/吉川 凪

◎編集者コラム◎ 『アイスランド 絶景と幸福の国へ』椎名 誠
HKT48田島芽瑠の「読メル幸せ」第43回