吉川トリコ「じぶんごととする」 4. NYで夢を捨てる【ダウンタウン編】
旅に出る前に予習と復習を兼ねて、ニューヨークを舞台にした映画を何本か見返した。『真夜中のカーボーイ』『ビル・カニンガム&ニューヨーク』『ホームレス ニューヨークと寝た男』。もっと気の利いたロマコメなどいくらでもあるだろうに我ながらひどいチョイスである。それからフランチェスカ・リア・ブロックの『エンジェル・フアン』を読み、ポール・オースターの『ムーン・パレス』は途中で放棄して、『BANANA FISH』を二十年ぶりぐらいに読み返した。
『BANANA FISH』1〜11
吉田秋生
小学館文庫
『BANANA FISH』1〜19 ※電子版
吉田秋生
小学館
どの作品にも共通して孤独の濃い影が差し、ネオリベの風が吹き荒れているように感じられた。ニューヨークで生きるということはこんなにも過酷なのか、こんなにもひえびえとした孤独に耐えなければならないのかとしんとして受け止め、やっぱりもっと気の利いたロマコメやロマンス小説にしておけばよかったと後悔した。
ある時期まで私の中のニューヨークは、『BANANA FISH』に描かれたニューヨークだった。アップタウン、ダウンタウン、チャイナ・タウン、グリニッジヴィレッジ、ハーレム、ブロンクス……ニューヨークの地区の名前はすべて『BANANA FISH』から学んだといっても過言ではないし、ニューヨークの治安の悪さや地下鉄の危険性を聞くにつけ、すりきれたジーンズを穿いたストリートキッズが頭の中を駆け抜けていった。彼らが暮らす街。彼らの庭。よくよく考えてみれば、旅行者を狩るようなちんけな真似をアッシュやシンが許すわけないんだけど。
十代のころ、それこそすりきれるまで何十回と読み返した作品である。最終回を読むために学校を自主早退した日のことはいまでもおぼえている。なじみの本屋で立ち読みし、あまりのショックにわけがわからなくなって毎月買っていたはずの『別コミ』を買わずに家に帰った。あの日、日本のどれだけの少年たちが私と同じようにうろたえ、思いがけない喪失にうちのめされたことだろう。アッシュ……!
気づけばアッシュや英二どころかマックスや伊部さんの年齢もはるかに追い越し、もはやパパ・ディノに近い年齢である。寄る年波には勝てないというけれど、今回パパ・ディノの健啖ぶり、欲望の深さをまのあたりにして、正直なところ「負けた」と思ってしまった。あるいはパパ・ディノも衰えを感じていたからこそあそこまでアッシュに執着し、アッシュを所有しようと躍起になっていたのかもしれない。パパ・ディノの一連の行動は中年の危機からくるものだと考えると、びっくりするほど腑に落ちる。かつて月龍に同化するように本作を読み、アッシュに憧れ英二を妬んでいた頑なな少女が、パパ・ディノの気持ちを理解する中年になってしまうなんて。
少女の肉体の鈍重さと不自由さ、初潮や初体験や加齢により自分がなにか他の生き物に変わってしまうんじゃないかという恐れを、吉田秋生は『BANANA FISH』以前の作品でくりかえし描いているが、類いまれなる美貌と頭脳と運動能力を持ったアッシュ・リンクスという少年は、私にとって翼だった。おそらく作者にとっても、多くの読者にとってもそうだったんだと思う。自分のかわりに──肉体なんてないみたいに軽やかにニューヨークを駆けまわってくれる男の子。
何年か前、吉田秋生の初期の代表作『吉祥天女』を読み返したときに、昔読んだときとはまったく印象が違うことに驚いた。長いあいだ私は主人公の小夜子を強くたくましく男にも負けない凜とした女の子として読んでいたのだが、まるきりなんにも理解できていなかったのだなと愕然としてしまった。ちょうど、ラストで由似子が兄に語るとおりの「小夜子像」をそのまま受け取っていたことになる。