市街地ギャオ『MayBe ficTIon』

市街地ギャオ『MayBe ficTIon』

MBTIは小説になり得るか


「MBTIテーマで連作短編集を作りませんか?」
編集者から提案されたこのビッグビジネスチャンスを逃すはずなどないにもかかわらず、僕は少しためらうふりをした。単著出版に飢えている新人作家であるのは間違いないけど、MBTIという自分の人生で気にかけたことのないテーマをうまく小説に落とし込める自信がないのもまた事実だった。
MBTIについて僕が知っていることは限りなく少ない。自分がINFPであることだけかろうじて把握しているくらいで、そのINFPのことすらよく知らない。ということはそれ以外の知識はないに等しかった。INFP以外のタイプについては執筆に取り組む中で学んだつもりだけど、すべて書き終えた今、何かを知った手応えは特にない。
インターネット上にありあまる眉唾なMBTIあるあるコンテンツに触れては、へえ、ふーん、ほう、など取るに足らない感想のみが浮かび、腑に落ちることもなければ大きな懐疑を抱くこともない。自分が書いた連作の主人公たちと照合してみては、そっか、そうかも、いやそうか? と判然としないままだ。MBTIあるあるに対して一家言を持てるほどの知見は得られていないまま、それでも連作短編集は刊行されてしまう。

すべての短編を、最初に主人公のMBTIと大まかな社会属性を決めて書き始めた。それは各編を執筆する中で唯一といっていい、絶対的なルールたり得るはずだった。
しかし書いているうちにMBTIの特性はその主人公固有の特性に置き換えられていき、ラストシーンを書いているときにはその主人公のMBTIがなんだったか忘れてしまうことまであった。
こんな書き方でいいのかと悩んだものの、今はそれでよかったのだと思う。どっかの誰かが分類した人間の思考パターンを逸脱したところにこそ、小説は、物語は生まれるのかもしれないから。思えばずっと、僕が読んで感銘を受けた小説はそうだったし、僕の書く小説だってそうだった。どっかの誰かより、確かにそこにいる語り手の方がずっとその小説世界を支配していた。
十六個の箱に頑丈な仕切りはなく、自在に行き来できた。それどころか、箱の外界と内界を隔てる壁すらも曖昧なものだった。

何かを規定した数だけ、規定できないものも増えていく。不安から逃れるために自他を分類し、区別することが、また新たな不安を呼び込む。だけどそれは、人が人と関わり続ける上で必要な不安なのだろう。だからきっと、人は物語を求め続けるし、物語を通して想像し得ない他者に心を動かされる可能性に開かれている。

『MayBe ficTIon』に描かれる六人の主人公のうち、誰かひとりでもあなたが好きになってくれたとしたら(あるいは嫌いになってくれたとしたら)、僕は作者としてこれ以上ないくらい嬉しい。小説はフィクションだけど、小説の中に書かれている感情も、それを読んで生まれた感情も本物だと思うから。
あなたが好きに(あるいは嫌いに)なってくれたそのきっかけがMBTIなのだとしたらこの本の企画意図は間違っていなかったといえるし、そのきっかけがMBTI以外にあったのならばこの本の小説としての強度は確かだったといえる。僕はひとりの小説家として、あなたの感情に触れられることを願っています。

以下市街地ギャオによる『MayBe ficTIon』セルフライナーノーツ(書いてみたかった)


IN a FloP

「『GOAT(小学館刊行の爆売れ文芸誌)』に短編を寄稿しませんか?」という依頼を編集者からもらって書いた一編。
ここでINFPをテーマに書いたことが、冒頭の「MBTIテーマで連作短編集を作りませんか?」に繋がった。つまりこの短編を書かなかったら『MayBe ficTIon』は誕生しなかったことになる。

僕はどうやらINFPらしいけど、INFPだからINFPのことがわかるかと言われたらまったくわからない。自分のことだってわかるようでわからないのに、他人のことがわかるわけがない。泣きながら笑うような、怒りながら悲しむような、楽しみながら退屈するような、そうしたことがままある人間の複雑な感情を一意に捉えること自体が難しい。その複雑さは「言語化」という言ったもの勝ちの概念を嘲笑うように、理由なく、たやすく心を手玉に取る。

過去の恋人がINFPだったこともある。その人のことは自分自身のことよりもうんとよくわかっているつもりだったけど、振られた瞬間からまったくわからなくなった。でも今はわからない方が健全だったのだとも思う。
わかろうとすることは、相手の表象をかたく抱え込むこと。だから自分と相手の間に何かが入り込む余地を損ねてしまう行為なんじゃないかと、最近ふと思った。
そしてこの短編のことを思い出した。わからないものに無理やり言葉をつけて切実な安心を得るより、わからないままでいた方が誠実なのではないか。切実と排他関係にある誠実のことを、最近は一層よく考えるようになった。

だから僕はこの短編の主人公の「ぼく」のことをずっとわからないままでいたい。捉えどころのない人を、捉えきれないまま自分の心の中に住まわせておきたい。
わからずとも小説は書ける。いや、わからないからこそ書き通せる。わかっていることだけを書くのは僕にとって少し苦痛だ。全身に反発を感じないのに水の中を泳げてしまうような、そうした手応えのなさ。わからないという反発は心地いい。この体が確かに水をかき分けて前に進んでいるのだという実感を得られる。

デビューして間もない頃、編集者から「小説の中に『わからない』が多いですね」と言われたことがある。それは自分の小説の確かな拙さだったけど、でも本当にわからないことだらけだ。それでいい。だから僕はこれからも小説を書いていきたいな、と思う。

 
ENd For Pray

最後までタイトルをどうするか悩んで、入稿後に「Play」を「Pray」に変えてもらった。
何かをすることは、その何かの果てにある未来を祈ることでもあると思ったから。つまり、祈りが成就したら、あるいは祈りを諦めたら、祈るための何かも終わる、ということでもある。そして両者の間には少しラグがあると思う。だから、未来を祈らずに何かをしている瞬間は必然的に訪れる。思考が置き去りにされて、ただ体だけが駆動している瞬間。
多くのものが並走している人生の中で、その瞬間は決して少なくない頻度で訪れるだろう。そしてその瞬間は、そんなに悪いものでもない気がする。自分を含めた誰にも説明できない行動の美しさ。それはきっと、祈りが潰える瞬間の燃え尽きや絶望とともにあるものだ。

そう考えると、主人公「ゆら」の人生はきれいなもので溢れている。歩いてきた道には無数の点が打たれていて、しかしその点は滑らかに接続されていて見返しても正確な位置を捕捉できない。小さな祈りは新たな祈りに更新されて、日々尽きていく。そしてそれすらもいずれは尽きる。
祈りにはゆらが自覚的であるものもないものも当然あって、だからゆらが自覚していないだろうそれを自分が書きすぎないように、定義しすぎないように注意した。
その注意にどこまでの意味があったかはわからない。ただ、この短編で書いたことが他の短編全体にも薄く広がっている感覚があった。まったく違う人たちの、決して重なり合わない話が続くのに、それでも「連作短編」というパッケージに収まっているのは、MBTIというひとつのテーマで横串を刺しているからではなく、それよりももっと前段に何か淡くて抽象的な(しかし決定的な)共通項が存在しているからではないだろうか。

 
ISsue For Juggle

『MayBe ficTIon』収録作の中で好きな話はどれかと聞かれたら日によって変わると答えるだろうけど、一番手応えのある話はどれかと聞かれたら迷いなくこれだと答える。

この言葉がどういう風に受け止められるかはわからないけど、書籍化に向けてこの短編の推敲をしているときに「自分はプロの小説家になったんだな」と思った。
小説家のクライアントといえば大抵が編集者、ひいてはその編集者が所属している出版社になるのだけど、本当の意味での小説家のクライアントは「小説家ではない自分」なのかもしれない。小説家ではない自分のオーダーに、小説家の自分が答える。思えば僕はずっとそうして小説を書いてきた。自分の中で自然とそういった分業がなされ、分業に応じた自分ができあがっていた。
連作短編という企画に取り組まなければ決して書かなかった主人公だと思う。それは、連作短編というきっかけがなければ、小説家ではない自分がこの主人公を小説家の自分にオーダーしなかった、という意味だ。

主人公・美香のような人への羨望は必ず侮りを含んでいるように思う。それでも僕は美香に憧れる。自分の歪み(と自分が思っているもの)を誰かへの優しさに変換できるしなやかさが僕も欲しい。その傲慢さはやはり侮りであり、決して手が届かないと理解しているからこその投げやりな羨望でもあるだろう。
侮りの源泉を辿ることは、それまで侮りに無自覚だった僕にはとても辛いことだった。息をしているだけでサンクコストが増大するこの世界で、それらを全部ひっくり返しながら生きていくことは並大抵の精神力では乗り越えられない。だけど、そうした経験を経ることでしか心はしなやかになっていかないのだとも思う。

 
EScape To Peak

誰の何も奪いたくない、とずっと思っている。というのは言い過ぎだけど、でも奪っている自覚だけは決して失わずにいたい。
小説を書くということはつまり誰かの何かを語るということだ。それはきっと少なくはない何かを奪っている。
そして語ると語り直すはほとんど同義だ。自分が創世の神であるわけがない。小説を書いた瞬間に、過去に遡って書かれたものの大元が現れる。僕の中で小説とは、そういう風にできている。
奪っているからこそ、奪った分以上のものを返さなければいけない、そう考えるのは傲慢極まりない。だけど、今の僕にはそれ以外の答えに辿り着けない。

デビューしてから書いた小説で、奪ったのに何も返せなかった、という経験を何度もした。それは小説単位であることもあれば、小説に登場する人物のひとりであることもあった。作者である以上、自分の書いたすべてに責任を持っていたい。たとえそれが到底叶うことのない理想論で、自分自身の中に生まれた呵責をねじ伏せるためのレトリックでしかなかったのだとしても。
とにかくいい小説を書きたい。書き続けていたい。返せなかった小説や登場人物には、もう一度ちゃんと返したい。未消化な小説や登場人物はきっと、再び書かれる瞬間までずっと息を潜めてこちらを射抜いている。

この小説に登場する三人の高校生たちに、僕は何か返せただろうか。今も草陰から僕の愚かさを覗き見て、三人でくすくす笑っていたりするだろうか。もしそうならば、少しだけ呵責は薄れるだろう。

 
INTo Poor

デビューしてからしばらくの間ずっと、「市街地ギャオ的な小説」という決して答えの存在しない幻影に囚われていた。それは内から見た市街地ギャオでもあったし、外から見た市街地ギャオでもあった。両者が不可分なことがずっとしんどかった。
一生存在しない幻影を追いかけて、見えないものを見て、聞こえないものを聞いて、書けないものを書いていくのかと思うとどうにかなりそうだった。早く小説家を辞めたかった。しかし、外から見た市街地ギャオは決して小説家を辞めたくはなさそうで、それに救われる日もあれば、苦しめられる日も当然あった。

答えが存在しないと理解していることと、それが自分の思考体系に組み込まれることの間には驚くほどの距離がある。自己啓発や哲学が多くの人を救わないのはきっとそのせいもあるのだろう。そしてそれは自分という存在が自分で思っているより頑固であることの証拠でもある。
僕は、自分でさえ扱いの難しい自分という存在が、それ以上にややこしい人間であったことにやっと気づいた。気づいたことで、やっと答えの存在しないものへの執着心が薄れていった。薄れたというより、膜のように自分に張りついていたそれがぺりぺりと剥がれて風になびいて飛んでいったような感覚だった。
そのおかげか、それまでよりもさまざまな小説を書けるようになった。その多くはかつての自分にとって「市街地ギャオ的ではない」小説だろう。
この短編もそのひとつだと思う。

主人公・克己はこれまでの自分にとって嫉みや、嫉みを処すためにたぐり寄せた蔑みの対象であって、決して近づきたいと思える人ではなかった。克己に近づいてみたいと思えるようになったことそのものが、随分と長い間囚われ続けてきた自分の歪みからの脱却なのだと思う。
人間としての懐の拡張はすなわち作家としての興味関心の広がりだ。変化することで得るものこそあれど、失うものはひとつもないのかもしれない。

「書けてよかったな」という気持ちが、書いてから今まで、一度も減衰することなく伸び続けている。それは自分が市街地ギャオ的/非市街地ギャオ的という二元論から確かに抜け出せた証であり、人生の多くの時間を収奪されてきた歪みを俯瞰できるようになった証だ。

 
主人公

書籍化用の書き下ろしは絶対に書きたかった。これまでに書いた短編たちだけでは何かが決定的に足りない気がしていた。それは各短編の小説としての瑕疵や不足ではない。それだけはわかっていた。しかし何が足りないのかはわからず、随分と長い間悩んでいた。

一話目「IN a FloP」の冒頭で主人公はこう述懐する。
「MBTIに主人公があるのはずるくない? とINFPのぼくは思うのだった。」
そういえば、この一行目を思いついたから自分は「IN a FloP」を書こうと思ったんだった。そして「IN a FloP」を書いたことで、編集者からMBTIをテーマにした連作短編の執筆依頼がきた。すべてはこの一行目から始まっていた。無数にある選択肢の中でも、限りなく低い可能性の果てに今があるのだと思うと、この一行に何やら運命的なものを感じた。
というか、いつだって小説の最初の一行と最後の一行は運命的なものであると思う。ほんの少しのズレでそれらはいともたやすく姿形を変えてしまうだろうから。自分のどの小説だって、最初の一行と最後の一行は特にそれが自分の書いた文章だとは信じられない。

そしてこの一行を主人公が述懐した意味をもっと深く知りたい、という情動が芽吹いたことに気づき、この短編を書き始めた。書き始めてからは一瞬だった。数日で初稿を書き上げ、そしてその初稿から大きく形を変えないまま完成に至った。
何をもって小説の完成を定義するかは僕の中でひどく曖昧だ。知ろうとすればするほど、捕まえようとすればするほどそれは手の中をするりと抜け出していくから。

準と律、ふたりの追いかけっこはこのまま一生終わらないのかもしれない、しかしそれはそれで幸せなことなのかもしれない。そう思いながらラストシーンを書いた。
今もあのラストシーンの意味を僕ははかりかねている。もしかしたら、ラストシーンのふたりも、自分たちをはかりかねていたのかもしれない。言葉が言葉の外側にあるものを先導した瞬間に、感情も判断も置き去られていくから。

タイトルは最初「ENd , Far Journey」にしていた。だけど、長い旅路はまだ終わっていない、いや、一生終わらないのだと気づいてタイトルを変えた。この短編ができるだけ強い余韻を残してくれていたら嬉しい。

  


市街地ギャオ(しがいち・ぎゃお)
1993年大阪府生まれ。INFP。2024年、「メメントラブドール」で第40回太宰治賞を受賞してデビュー。同作で第46回野間文芸新人賞、第1回永井荷風文学賞候補。

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『MayBe ficTIon』
著/市街地ギャオ

採れたて本!【海外ミステリ#46】
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