作家を作った言葉〔第27回〕市街地ギャオ

作家を作った言葉〔第27回〕市街地ギャオ

 ちょうど一年ほど前に、ぼくの小説を「普遍性がある」と言ってくれた人がいた。「多くの人に読まれるべきだ」とも言ってくれた。たしかに嬉しかったはずなのだけど、その感情をうまく出力できなくて思わず口ごもってしまったぼくに、その人は「でも言葉がそれを阻害してしまうかもしれない」と続けた。そして、「言葉が障壁になって伝わらないのはもったいないから、みんなに伝わる言葉に置き換えてみてもいいかもしれない」とアドバイスをくれた。デビュー作の選評でもたびたび挙がった、所謂「小説的ではない」言葉の使用について。

 小説世界において物語を駆動させるのは語り手と世界との関係性だ。そして言葉は、駆動した後の物語を牽引していく船頭のような存在なのだと、ぼくは考えている。というかそれ以外の書き方を知らない。
 人と、その人を取り巻く世界が「在る」ことによって自然発生したものが、日本語というフォーマットの中で言葉に導かれてあちこちへ転がっていく。当然それだけではなく、小説全体を俯瞰した上で道を舗装する自分自身もいたりはするのだけど、物語のギアを上げるのは必ず言葉そのものなのだ(正確には、言葉によってギアが上がるのかギアが上がったことによってその言葉が選ばれるのかわからないときもあるけれど)。

「小説的ではない」言葉の使用に対してそれなりに自覚的ではあったけど、それは「いまいまのバズワードを小説内で使いたい」という信念があるというわけではない。ただ小説の方から要請されて使ったに過ぎないと思っている。では、小説の要請とはなんなのか。
「いまを生きる感情は、いま生きている言葉でしか表現できない」これに尽きると思う。そしてそのことに気付いたから、悩んだけど、「小説的ではない」言葉を無理に制御しないようにしようと決めた。それからほどなくして書いた小説が、ぼくのデビュー作になった。

 あのとき、言葉に対して指摘をしてもらえなかったら、言葉の使用について悩んでいなかったら、デビュー作は書けなかったかもしれない。「いまを生きる感情は、いま生きている言葉で」。悩んだ末に導き出した答えはとてもシンプルだったけど、その明瞭さは書き手として自分の芯に据えるのにちょうどよい手触りだった。これからもその芯を大事にしながら、自由に、開かれた言葉で小説を書き続けられたらいいなと思っている。

 


市街地ギャオ(しがいち・ぎゃお)
1993年大阪府生まれ。2024年、ネットスラングなどのジャーゴンを多用した小説「メメントラブドール」で第40回太宰治賞を受賞してデビュー。


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