藤谷 治『ニコデモ』
足跡をたどる ――『ニコデモ』について――
どんな家にも、遠い親戚にまつわる奇談のようなものが、ひとつやふたつはある。
僕の母方の曽祖父の最初の結婚で生まれた長男、というのだから、遠いどころか親戚と言えるかどうかも判らないほどの人の話だ。この人は20世紀のはじめにフランス人と結婚して、子どももいたにもかかわらず、ある日突然外人部隊に入隊して、そのまま行方不明になってしまったらしいのである。外交官だか何だかをしていたその人が、どうして外人部隊などに入隊したのか、経緯も動機も不明だ。しかしそういうことは確かにあった。僕は1980年に、パリでその人の奥さんだったフランス人の老婆に会っている。遺児は今でいう心療内科の病院に入院していて会えなかった。
『ニコデモ』は、我が家では半ば伝説のようになっているこの人のことを空想するところから着想した。もちろん小説の主人公である瀬名ニコデモは、その人とはまったく違う、架空の存在だ。しかしその架空の人物が、僕の先祖たちを次々と呼び寄せていった。北海道を開拓した父方の曽祖父、その寒村で最初に出征し、中国で戦病死した祖父、上京してひたすら「我が道」を行った父。
彼らのことも事実そのままを書くことはなく、複数のモデルを合わせたり、物語を優先したりしながら筆を進めた。背景となる歴史的な出来事についても、老人たちが語った話を尊重した。だから年表的に見れば、史実とのズレや食い違いはある。
この小説ではまた、別のことも考えた。それは……なんていったらいいんだろう?……人の世と、人の世を超えたもののことだ。
幸運に期待するとか、願えばかなうとか、そんな甘い考えは僕にもない。けれど、人の世は人の世だけで始まって終わるとも、僕は思っていない。僕たちが生き、何かをして、ここまで来た、ということは、自分自身の力だけでも、社会の働きや僕たちへの評価だけでも成り立たない、奇妙な、僕たちの知らない差配の影響を受けている。年齢を重ね、否も応もなく経験を積み、ここまで生き延びて、僕はそれをはっきりと実感するようになった。
しかしそれは祝福でもなければ呪いでもないのだろう。僕たちの目にそれは、ただの理不尽で不公平な苦しみや喜びにしか見えない。昔の人が「宿命」とか「縁起」と名前をつけたそれを、ニコデモという一人の男を物語ることで、考えてみたかった。
足跡の物語を書きたかったのだ。人間がどのように歩き、歩かされてきたか、その物語を。今の、これからの僕たちの歩みは、その先にのみあるだから。
藤谷 治(ふじたに・おさむ)
1963年東京都生まれ。2003年『アンダンテ・モッツァレラ・チーズ』でデビュー。主著に『いつか棺桶はやってくる』『船に乗れ!』『世界でいちばん美しい』(織田作之助賞)などがある。
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『ニコデモ』
著/藤谷 治