ニホンゴ「再定義」 第12回「理屈」
当連載は、日本在住15年の〝職業はドイツ人〟ことマライ・メントラインさんが、日常のなかで気になる言葉を収集する新感覚日本語エッセイです。
名詞「 理屈 」
理屈とは何か。「論理」とは何がどう違うのか。Web 辞書を開いてみると
1. 物事の筋道。道理。「—に合わない」「—どおりに物事が運ぶ」
2. 無理につじつまを合わせた論理。こじつけの理論。へりくつ。「—をこねる」
ということで、ああやっぱり「道理」「こじつけ」という矛盾する用法が併存しているのだな、と改めて実感する。この併存状態がなぜ受容され続けるのか、という点が重要である。
ちなみに Web 翻訳で「理屈」をドイツ語訳すると、どう工夫しても「Grund」と「Logik」に収斂する。前者は「理由」の、後者は「論理」の意味だ。いずれにせよ、日本語的に最も肝心と思われる「こじつけ」という要素が抜け落ちてしまうのが興味深い。
この、ドイツ語世界で「理屈=論理」となってしまうっぽい現象について、実は心当たりがある。
日本に来る前の話だったが、ドイツの大学で環境問題を専攻する学生の研究発表を聞いたときのこと。そもそも地球にやさしくない重工業国は将来的にどのようにあるべきか、という彼女の論説で気になったのが、当時、急激な産業化(それも相当無茶な)を大規模に進めていた中国についての懸念が極めて薄かった点だ。
そこで質問してみた。中長期的にみて中国ちょっとやばくないですか? と。
回答は自信満々かつ簡潔なものだった。ええ、中国の有害物質の排出量を人口で割って、「一人当たり」に換算するとそれは極めて微量であり、「中長期的」にみても中国の環境破壊リスクは安全圏にとどまるのですよ! と。
そう。その場での「理屈」としてはおそらく正しい。しかしもっと総合的、包括的な観点からみて常に「論理」的に正しいといえるだろうか? 我々はその答えを直観的に知っている。そしてもう一つ私が知っているのは、その大学生、もしも死後、閻魔大王の前で「何か申し開きをしてみよ」と命じられたら、私に対してしたのとまったく同じ調子で「自説の正しさ、蓋然性についての無謬さ」を自信たっぷりに述べるだろう、ということ。
それがインテリ系ドイツ人というものだ。まあ全員ではないけれど。