ニホンゴ「再定義」 第12回「理屈」
この事例で窺えるのは、教条的頭脳を持つ人の「喩え話の通じなさ」「ユーモア感覚の欠如」「視野の狭さ」などなどだが、おそらく最も重要なのは「理屈っぽい要素を振りかざしているだけで、実はそもそも理屈性を構築できていない」点だ。パーツとしては確かに「論理的」なのだが、この場では適合するインターフェースが無いからどことも接続できてないよ、という。でも本人だけは何故か接続している気でいるみたいな。
実際、このドイツ人のアクションって、機能としては「悪魔じみた敵を前にして聖書の一節を朗々と唱える」のに近いんじゃないか、とあとで思い至った。反ナチ・反ヒトラー的な定番聖句に対する信頼と愛をその場で表明することにこそ意味がある! というか。そうでないと意味を拾うことが出来ない。要するに、宗教「的」信仰の文脈の上に位置するサムシングであり、論理的説明ではなく儀式であり、ありていにいえば、コックリさんを解除する術式と同じようなものだ。
そう考えると、いろいろと腑に落ちる。納得でありそして残念だ。
知性とはそして教養とは、いったい何なのか。
しかしよくよく内省的に考えると、論理と理屈の境界線を引く資格のある者とは果たして誰なのか? という疑問に突き当たる。
誰もが携帯端末を通じて情報飽和空間にアクセスできる状況下、ある事象について調べるにも、そのすべての関係情報を渉猟した上で論理的に正しい見解を導出する、などというプロセスを常にクリアできるものだろうか。答えは否である。情報あふれの時代、我々は往々にして、論理の手前のどこかにある「理屈」がもたらす蓋然性の説明で納得しなければならない状況にあるのだ。無自覚に。
程度の差はあれど、その無自覚がなにやら怖い。
(第13回は2月29日公開予定です)
マライ・メントライン
翻訳者・通訳者・エッセイスト。ドイツ最北部の町キール出身。2度の留学を経て、2008年より日本在住。ドイツ放送局のプロデューサーも務めながらウェブでも情報発信と多方面に活躍。著書に『ドイツ語エッセイ 笑うときにも真面目なんです』。