ニホンゴ「再定義」 第11回「教養」

ニホンゴ「再定義」第11回

 当連載は、日本在住15年の職業はドイツ人ことマライ・メントラインさんが、日常のなかで気になる言葉を収集する新感覚日本語エッセイです。 


名詞「 教養 」

「マライさん、日本のいま(2020年代半ば)の言論状況のヤバさの根本には、何があると思いますか?」

「あくまで私見ですが、【知識人】がいっぱいいる割に【教養層】が激薄あるいは存在しないことがポイントのように感じます」

 ここでいう教養層とは何なのか。そもそも「教養」の、特にネット言論的に有効な意味とは何か。

 教養の定義についてネット検索してみると、「品位や人格性の向上と連動させる形で学問的知識を修めること」が、無難なイメージとして社会的に共有済みであることが窺える。これは「上品で思考バランスの取れた知識人が有する知的スタンス」と言い換えることが可能だろう。そしてそれは、残念ながらこの時代の「高度な反知性」と目されるネガティブ系文化・言論活動に対する有効な処方にはならないように見える。何か重要なトコでパンチが足りないのだ。そこで敢えて時代的ニーズに沿った形で「教養」を補強定義してみると、それはおそらく

 学問的知識と文脈を踏まえ、事物や事象について包括的でスジの通った説明をする知的能力およびその背景として存在する知的システム

という形になるだろう。敢えて「もっとも重要な文節に下線を引け」と言われたら、この場合は「包括的」ということになるだろうか。あくまで私見なのでツッコミどころが二〇〇〇個ほどあるのは百も承知だが、実際の話、ネット上の論争の趨勢を概観してみても、伝統的教養寄りの立場に立つ者の優位劣位は、この知的姿勢を活用できているかどうかで決まることが多いように見受けられる。

 要は、「部分」を巧妙に研ぎ澄まし、肥大化させた上で「全体」にぶつけることにより概念的な風穴を開け(or 開けたような演出を見せ)て、価値観の破壊や逆転を図ろうとする勢力が「一般的知性」の主たる敵手であるということを、もっと自覚的にとらえて概念構築していかないといろいろマズい展開に陥ってしまう現実が存在する。ホンモノよりもよく出来たニセモノ跋扈の一例というか、これは「ディベート」=「論理」的な思い込みの蔓延がもたらした社会毒ともいえるだろう。

週末は書店へ行こう! 目利き書店員のブックガイド vol.127 梅田 蔦屋書店 河出真美さん
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