夏川草介『臨床の砦』

夏川草介『臨床の砦』

コロナ最前線の砦から


 本書『臨床の砦』は、コロナ診療の最前線を描いた小説である。最前線といっても、人工呼吸器やECMO(体外式膜型人工肺)が登場するような高度医療機関ではない。呼吸器内科医も感染症専門医もいない、地方都市の小さな感染症指定医療機関が舞台である。時期は、コロナ第三波が猛威をふるった令和三年一月を取り上げ、限られた数の医師や看護師たちが、必死にコロナ診療を支える経過を描き出した。あくまでも小説という体裁をとっているが、私自身が診療に携わる中で、実際に目にし、経験した事柄に基づいている。

 言うまでもなく、本稿を執筆している五月現在、コロナウイルス感染症は収まる兆しを見せていない。それどころか第四波を受けて、医療現場はより凄惨な様相を呈し始めている。一方で私自身は一介の内科医であり、感染症に対する強力な打開策や、経済に関する特別な見識を持っているわけではない。かかる条件下では無論、コロナ感染症について何らかの結論めいたことを語ることは難しい。強いて言えば、今も世界中で多くの人々が亡くなっているさなかに、スポーツと平和の祭典を挙行しようというこの国の在り方には驚きと当惑を禁じ得ないが、その感覚が他者の共感を得るものなのかさえ私にはわからない。ただ、日々の苛烈な臨床現場でひとつ明確に感じたことは、一般人、医療関係者を問わず、実に多くの人々がコロナ診療の実態についてほとんど何も知らないのではないかという危機感である。診療の合間を縫ってなんとか書き上げた小さなこの物語を、いささか性急であっても世に問わねばならぬと結論した主意はそこにある。

 控え目に言っても、コロナ感染症は未曽有の大災害である。命の危険があるだけでなく、あらゆる立場の人々を苦難に陥れている。だがウイルスの恐ろしさは命と経済だけの問題ではない。そこから派生する様々な人間の負の感情が、状況をさらに悪化させていると感じている。マスメディア上には怒りや悲しみが溢れ、非難や誹謗中傷が飛び交い、むやみと攻撃的な言葉が往来している。しかし、自己の苦境ばかりを訴える態度は事態を改善しない。戦うべき相手はウイルスであって隣人ではないはずである。私は本書で、医療現場の過酷さを描いたが、だからといって医療が最優先だと言いたいわけではない。この感染症と戦い続けるために必要なことは、突き詰めればふたつだけである。人間が互いに支えあうこと、そして希望を持つこと。本書を通じて、そんな私の思いがわずかでも伝わってほしいと願うばかりである。

 


夏川草介(なつかわ・そうすけ)
1978年大阪府生まれ。信州大学医学部卒。長野県にて地域医療に従事。2009年『神様のカルテ』で第十回小学館文庫小説賞を受賞しデビュー。同書で10年の本屋大賞第二位となり、映画化もされた。他の著書に、『神様のカルテ2』(映画化)『神様のカルテ3』『神様のカルテ0』『新章 神様のカルテ』『本を守ろうとする猫の話』『勿忘草の咲く町で 安曇野診療記』『始まりの木』がある。

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臨床の砦

『臨床の砦』
著/夏川草介

◎編集者コラム◎ 『祝言島』真梨幸子
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