「推してけ! 推してけ!」特別編 ◆『臨床の砦』(夏川草介・著)

「推してけ! 推してけ!」特別編 ◆『臨床の砦』(夏川草介・著)

評者・知念実希人 
(作家・医師)

現役医師がコロナ禍の地域医療をリアルに描いたドキュメント小説


 二〇二〇年の初め、数か月後に予定されているオリンピックを待ち望んでいた日本の「日常」は誰も気づかないうちにゆっくりと、しかし確実に侵食されはじめていた。

 中国の武漢で報告された原因不明の肺炎の原因は、一月には新型のコロナウイルスによる感染症であると判明し、そのウイルスは SARS-CoV-2 と、そしてそれが引き起こす感染症は COVID-19 と名付けられた。

 しかし、当初は医療関係者も新型コロナウイルスが日本に大きな影響を与えるとは思っていなかった。

 二〇〇二年に発生した SARS は発生国である中国をはじめとする国々で、多くの感染者・死者を出したが、日本では感染者が生じることなくやがて終息した。二〇〇九年の新型インフルエンザも、数千万人という多くの感染者が国内で生じたものの死者は限定的で、社会的な損失は大きくはなかった。

 しかし、SARS-CoV-2 は想像を絶するほどに悪質なウイルスだった。ダイヤモンド・プリンセス号で多くの感染者が生じ、そこから市中感染が広がり、さらに欧米で感染爆発により多くの死者が出て、次々と都市がロックダウンするのを目の当たりにして、もはや「日常」は失われ、未知のウイルスとの先の見えない戦争に突入したことを医療関係者たちは悟った。

『臨床の砦』の主人公、敷島寛治は長野県にある中規模病院の中堅の内科医だ。本来の専門は消化器だが、勤務している信濃山病院が感染症指定医療機関であるため、発熱外来や新型コロナ患者の治療を請け負っている。そして物語は、「第三波」と呼ばれた、二〇二〇年末から二〇二一年年始にかけて全国で新型コロナの感染者が爆発的に増え、多くの地域で医療崩壊が起きた時期を描いている。

 作者である夏川草介氏は、長野県の病院に勤める現役の消化器内科医で、二〇〇九年に小学館文庫小説賞を受賞し刊行した『神様のカルテ』が大ヒットし、人気作家になった。その後も『神様のカルテ』の続編シリーズや、『本を守ろうとする猫の話』『始まりの木』などを多忙な勤務の合間に精力的に執筆し、刊行している。

 そして現在、夏川氏は勤務先の病院で、COVID-19 の診療に携わっている。

 お気づきのこととは思うが、夏川氏の医師としての立場は、『臨床の砦』の主人公、敷島と瓜二つなのである。つまりこの作品は、医師としてこのコロナ禍で夏川氏が実際に目の当たりにした厳しい現実をどこまでも生々しく、リアルに描いた、いわばノンフィクションでもあるのだ。

 幸いなことに日本は欧米ほどの感染爆発は起こらず、第一波、第二波を比較的少ない被害で乗り越えることができた。しかし、そのことが国民の気の緩みに繋がり、寒く乾燥した気候、忘年会やクリスマスシーズンなどの要因と重なって、第三波はそれまでとは比較にならないほど、大きな感染の津波と化して医療現場を襲った。

 その波は敷島が勤務する信濃山病院も直撃し、二十床あった感染病床は瞬く間に埋まり、急いで三十六床まで増床するがそれでも対応できなくなる。地域医療が危機に陥っているにもかかわらず、周囲の病院は COVID-19 患者の受け入れに消極的で、敷島たち、新型コロナ診療チームは心身ともに極限状態に追い込まれる。

 自らが感染する恐怖に怯え、次々と患者が亡くなっていく無力感に苛まれ、相次いで運ばれてくる患者に体力の限界を迎える。さらにはとうとう、院内でクラスターが発生する。そんな地獄絵図とも言える現場とは対照的に、世間の危機感は薄く、政治家の中には「医療現場は頑張っていない」という趣旨の発言をする者すらでてくる。

 この理不尽はまさにいま、現実に起きていることである。医療現場の危機感が、政治家や一般の人々に伝わらず、あまつさえコロナ禍のストレスが医療現場批判へと向けられることすらある。しかし、新型コロナは医療従事者だけの問題ではない。この物語の中に登場し、新型コロナウイルスに苦しめられる患者たちは、まさに「一般の人々」だ。いつ誰がその立場になるやもしれないのだ。

 この小説は、いまなにが起きているのかをまざまざと見せつけ、そして誰もが当事者であることを知らしめてくれる貴重な資料だ。きわめて有効性の高いワクチンの接種が日本でもはじまり、長かったトンネルにもようやく光が差しはじめた。コロナ禍を克服し、かつての「日常」を取り戻すには、医療従事者だけでなく、多くの人々の力が必要だ。

 そのことを、夏川氏独特の優しい筆致で描かれた『臨床の砦』は、きっと気づかせてくれるはずだ。

【4月23日発売】

臨床の砦

『臨床の砦』
著/夏川草介


知念実希人(ちねん・みきと)
1978年沖縄県生まれ。東京慈恵会医科大学卒。2011年「レゾン・デートル」で第4回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞受賞。12年同作を『誰がための刃』と改題しデビュー。『十字架のカルテ』『傷痕のメッセージ』など著書多数。
 

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