夏川草介 特別読切「青空」
「信号よし!」
「信号、青確認よし」
「右折します、右よし!」
「左車両よし、そのまま直進だな」
救急車の運転席から、救急隊員の歯切れのよい声が聞こえてくる。
車両はゆっくりと右折していく中、防護服に身を包んだ敷島は、大きく開けた窓の外を見つめている。
彼方に見える北アルプスの山並みは、数日前と同じく稜線沿いが白く染まっているだけだ。今年は日本海側で記録的な豪雪となっているが、不思議とこのあたりは雪が多くない。例年なら麓まで雪化粧になるはずが、今は存外に黒い山肌が見えている。
敷島は、後方へ流れていく寒々とした景色から、車内のストレッチャー上の患者に視線を戻した。
根津九蔵、六十五歳、男性。今朝から呼吸状態が悪化している患者だ。
朝のカンファレンス前に悪化の兆候が見られていたが、敷島が午前中の発熱外来を終えて病棟に上がってきたときには、酸素5Lが流れている状態であった。すでにアビガン、デカドロンを含め、できる治療は開始している状態での悪化であり、ただちに筑摩野中央医療センターに搬送となったのである。
救急車が直線に入り、速度を上げていく。
加速度を体で感じながら、敷島は目の前の患者に目を向けた。
数日前、平岡を搬送したときはアイソレーターという袋に包んで運んだが、今日の根津は、酸素マスクの下に紙マスクをしている状態ではあるものの、そのまま目の前のストレッチャーに横になっている。天井からおまけのように透明シートがぶら下がっているが、座った敷島の額の辺りまでしか下がっておらず、すぐ目の前に、白髭の患者の顔がある。
アイソレーターのない車両なのだ。
当然手配すべき搬送車両が、他院の重症患者搬送のために出払っていて、手配できなかったのである。感染症対策設備を搭載した救急車両は近隣には一台しかなく、搬送を終えて消毒に一時間。そのあと、さらにもう一名の搬送の予定があるため、信濃山病院に来るのは夜になるという返事であった。
根津の呼吸状態は数時間で悪化している。夜までに人工呼吸器が必要になると判断し、敷島は防護服に身を包んで、通常車両での患者搬送を決断したのである。
これもまた医療崩壊の予兆か、と敷島は黙考する。
根津はときどき乾いた咳を繰り返しているが、敷島はもはや身じろぎもしない。
ただ黙って、根津の指先のSpO₂モニターを見つめる。数値90。敷島は足元の酸素ボンベに手を伸ばして、5Lを6Lへと増量する。
〝今回は本当にやばいんじゃないかと思ってる〟
数日前、そう言った朝日の声が耳によみがえった。
朝日の予言は、確実に現実のものになりつつある。
今日の午前中の発熱外来を思い出せば、背筋が寒くなる思いだ。
朝のカンファレンスの段階では、予約の受診者は八名というのが三笠の連絡であったが、外来開始一時間ほどの間に次々と保健所から連絡が入り、濃厚接触者はたちまち二十名近くなった。コロナ陽性はその半数近くにのぼり、七十歳以上の高齢者も三名。その三名ともがCTで左右両側の肺炎像を呈していた。
〝肺炎ですか?〟
iPadの画面で目を丸くした老婦人の姿を、敷島は妙に鮮明に覚えている。
〝私、なんともないんですが……〟
そうなのだろう。婦人が虚勢を張っているわけではないことは、敷島にもわかる。
婦人はただ、東京から帰省した息子がコロナ陽性であったため、接触者として保健所から受診を指示されただけなのだ。来院時、熱をはかってみると37・2℃という微妙な数値ではあるものの、その他はまったくの無症状だったのだが、CTを撮ってみれば両側の肺に散在する影が明確に認識できた。
画像を見て、敷島がひやりとしたのは、その所見が死亡した平岡の画像によく似ていたからだ。
〝入院なんでしょうか?〟
不安げに問う婦人に、敷島はゆっくりと説明する。
「今のところ極端に危険な所見ではありませんが、七十八歳という年齢とこの肺の所見を見れば、比較的急に悪化する可能性もあります」
背後で鳴り響くPHSの音や、スタッフの大声にかき消されないよう、できるだけはっきりと、ゆっくりと語をつないでいく。
「入院して、治療を開始すべき状態です」
にもかかわらず、と敷島は右の拳をそっと握りしめていた。
信濃山病院にはベッドがないのである。
「現在保健所が県内で入院可能な病院を探しています。まずは自宅に帰って電話を待っていてください」
〝家で待っていれば大丈夫なんですね?〟
「大丈夫です」
答えたとたん、胸の奥でかすかに小さなひびが入った音がした。
そのかすかな耳の奥の音をかき消すように、敷島はもう一度、まるで自分に言い聞かせるように同じ言葉を強く繰り返した。
大丈夫だと言える根拠などあるはずもない。
感染者急増の首都圏で、しばしば病院以外の場所で急死している患者には、こういう症例が含まれているのではないかと思う。それは根拠のない憶測というには、あまりにも鮮やかなイメージを持っている。もちろん入院させれば確実に救命できるとは限らない。けれども、高齢患者が院外で急変すれば、救命しようがないことも確かだ。しかも、いくら本人に注意をうながしても、症状が希薄な患者が少なくないのである。そこまでわかっていて、現場の医師はどうすることもできない。
今日の昼も医局のテレビでは、どこかの医学部の教授が、医療崩壊寸前だと警鐘を鳴らしていた。これを受けたニュースキャスターは大変なことだと険しい顔で繰り返していたが、一連の流れが敷島には見当違いの茶番に見える。
医療は崩壊寸前なのではない。
すでに崩壊しているのではないのか。
「先生、まもなく到着です」
運転席の救急隊員の声で、敷島は顔を上げる。
いつのまにか窓の向こうに、中央医療センターの白い大きな建物が見えていた。殺風景な裏口に回り込んだ救急車の行く先には、すでに別の一台が止まっている。ここは一般的な医療圏を越えて遠方からも重症患者を受け入れている病院だ。ほかの地域からも搬送があったのだろう。
「根津さん、到着です」
敷島の言葉に、根津は小さく「ありがとうございます」と言ってうなずいた。 やがて車両が止まり、開いた扉からおりると、根津を載せたストレッチャーが車外に引き出された。
救急車のストレッチャーから、病院のストレッチャーへと患者が受け渡される。
その景色が、わずか数日ほど前の平岡の搬送を思い起こさせ、たちまち不吉な予感を引き起こしたが、敷島は動じなかった。持ち前の冷静さを発揮したからではない。
おそらく根津は戻ってくることはない。
あの肺所見、今の呼吸状態、年齢、基礎疾患を考えれば、おそらくこの青い空の下に帰ってくることはない。そのことを、敷島は直感していたからである。
救急隊員から看護師に矢継ぎ早に申し送りがなされ、すぐに動き出したストレッチャーについて感染症病棟へと向かう。エレベーターに乗り、扉をいくつかくぐった先は、わずか数日前に来た時とさらに様相が異なっている。
前回は病棟の手前側にはいくつかの空室が続いていたが、今は満室とまでは言わないまでも、どの部屋にも患者が入っている。そこを多くのガウン姿のスタッフが往来し、あちこちでモニターが警告音を響かせ、ときどき聞こえる医師や看護師の声は殺気立った鋭さを帯びている。
患者を送り届け、イエローゾーンで防護服を脱いだ敷島は、ステーションの前で中の看護師に声をかけた。
「信濃山病院の敷島です。患者を搬送してきました。朝日先生はいらっしゃいますか?」
「お疲れ様です」
素早く答えた年配の看護師は、敷島に歩み寄る余裕もなく、
「すみません。今日は朝日先生も時間が取れません。お気をつけてお帰りくださいとのことです」
予想していた言葉ではあった。
ここももう、以前とは異なる段階に入っている。
敷島は多くを問わず、ただ丁重に礼を述べ病棟に背を向けた。気遣いの挨拶はかえって面倒をかけるだけであることは、同じ臨床医として承知していることだ。
扉をくぐり、エレベーターを降り、いくつかの渡り廊下をくぐって、外へと向かう。入ってきたときは感染者搬入用の裏口だが、帰りは正面玄関に回ってタクシーを呼ばなければいけない。
複雑な建物の中、廊下を曲がり、扉をさらにいくつかくぐったところで、正面の総合受付前までたどりついていた。
そこはコロナ診療とは異なり、今も一般診療が行われているフロアだ。
少し歩調を落としながら敷島は外へ向かう。
普通にお年寄りが杖をついて歩き、車椅子の患者が行きかい、道を聞かれた看護師が患者に明るい声で説明をしている。慣れない松葉杖をついた若者がゆっくりと歩を進めている。売店でいくつものパンを買い込んできたらしき婦人が足早に通り過ぎていく。
――懐かしい景色だ……。
それが、敷島のいつわらざる感覚であった。
この病院の裏側では朝日たち数名の医師が、危機感に駆られながら必死に感染症病棟を駆け回っている。一方で、正面玄関にはまるで何事もなかったかのようにもとの世界がもとのままの姿で営まれているように見える。
一部のコロナ患者を受け入れているこの病院でさえこの状況であるのなら、コロナ診療を断っている病院は、もしかしたらほとんど何も変わっていないのかもしれない。何の準備もしないまま、通常診療という名の日常を続けているのかもしれない。すぐ足元まで、大きな亀裂が入り始めていることにも気づかぬまま。
受付前の待合室を過ぎ、ゆっくりと玄関へ向かう。
待合のテレビが、興奮した声で医療崩壊の危機を論じている様子であったが、敷島は何の興味も引かれなかった。
外に出てみれば、思いのほかの晴天であった。
額に手をかざし空を見上げる。
「負け戦か……」
思わず知らずのそのつぶやきが、青い空に昇っていく。
このままタクシーに乗れば、また最前線に復帰になる。小心者の自分にとっては、荷の重い戦場が待っている。病院に戻りたいかと問われれば、即答できる覚悟はない。しかし戻らないという選択肢もない。自分でも、不思議なほどにそれはない。
手をかざしたまま目を細めれば、いつになく澄み切って、雲一つない空が広がっている。世界の激変と縁もゆかりもないままに、ただ青々と遠く果てしなく広がる冬の空だ。
すぐそばを、患者とその家族らしい一団が通り過ぎていく。明るい話し声が近づき、また遠ざかっていく。
なおしばらく空を見上げていた敷島は、やがてゆっくりと右手を頭上に掲げた。
駐車場の奥に止まっていたタクシーが動き出し、目の前に寄せてくる。黒いセダンが眼前に止まり、座席の扉がゆるやかに開く。
もう一度青空を見上げた敷島は、白衣を掻き寄せながら後部座席に乗り込んだ。
そうして、いつものごとく静かに声を上げた。
「信濃山病院へ」
タクシーはすべるように走り出した。
───────了
本作「青空」を収録した夏川草介氏の新作
『臨床の砦』は、本年4月23日に
四六判上製にて刊行予定です。
どうぞご期待ください。