夏川草介 特別読切「青空」
「年末から院長が、市や保健所、および周辺医療機関に対して、当院だけでコロナを乗り切るのは無理だと繰り返し訴えています。市長の耳にも届いているはずですが、残念ながら行政は今のところ動きはありません。これを受けて、当院では近日中にテレビ会見を開き、直接世論に医療の危機的状況を訴えていく方針です。また、院長自身が直接近隣の一般病院に患者受け入れの交渉を始めていますが、交渉自体は始まったばかりです。今のところ、いくつかの病院から、三名、ないし四名の受け入れが、来週にもできるかもしれないという返事が来ています」
先ほどとはまた違うざわめきが室内に広がった。
歓迎の声ではまったくない。
信濃山病院はすでに二十名を超える患者を受け入れている。個室に二人を押し込むなどの非常策で対応しているというのに、近隣の、はるかに規模の大きな病院が、わずかなベッドしか都合できないという。しかも来週以降の話だ。
「大学病院は動いてくれないのでしょうか?」
発言は、内科唯一の女性医師である音羽のものである。糖尿病内科が専門で、五年目であるから内科の最年少でもある。
「大学病院が、重症患者をひとりか二人診てくれているという話は聞いています。でも専門性やマンパワーから考えれば、今こそ本格的に乗り出してもらうべきではないかと思いますが……」
「それも交渉中です。窓口になっている教授からは、様々な部署からの抵抗が強く、なかなか準備が整わないとの返事が来ています。ただ、若くてECMOが必要な患者がいれば、必ず受け入れると返事をもらっています」
ECMOというのは、体外式膜型人工肺の通称である。肺炎で十分な酸素を取り込めなくなった患者に対し、直接血液を体外に取り出して酸素化してから戻す一種の人工肺である。コロナ肺炎治療の切り札とされているが、所有している施設が極めて少ないことに加えて稼働させる技術を持っている人員はさらに少ない。筑摩野中央医療センターにもない極めて特殊な機器である。
「若くてECMOって……」
外科の龍田の、噛み締めるようなつぶやきが漏れた。
その太い眉を露骨にゆがめて声を荒らげる。
「若くてECMOが必要な患者なんていませんよ。若い患者は僕たちでも診られるし、何より重症化しないんです。やばいのは基礎疾患のある中高年の患者じゃないですか。元気に見える中高年の感染者が一気に悪くなるのがコロナのやばいところなんです。その訳の分からない発言自体が、なにも現場をわかっていない証拠じゃないですか」
龍田の苛立った声が響く。
その苛立ちが呼び水となったように、室内にざわざわと私語が満ちていく。
――医師の精神はそろそろ限界に近くなっている。
敷島は、そっと手元に視線を落とした。
虫垂炎の診断が二時間待ち。
肺炎患者は自宅で入院待機。
近隣の医療機関はいまだ準備が整わず、明らかに対応に遅れがある。
院内を顧みれば、コロナにかかわる医師も看護師もまともな休息が取れていない。
この状況で、今日もこの小さな病院に大量の患者が押し寄せてくる。
すでに一年余りの長期にわたる消耗戦で確実に疲弊しているところに、過去に例のない圧倒的な大軍が迫っているということだ。
敷島は、頭の中でひとつずつ問題点を数えあげ、やがて小さく嘆息した。
「この戦、負けますね……」
なんとなく零れ落ちた敷島の声は、けして大きくはなかった。しかし幸か不幸か、医師たちの議論の狭間を絶妙にとらえて、不思議なほど明瞭に響いた。
にわかに室内が静まり返る。
言葉の異様さも無論だが、普段は寡黙な敷島がその異様な言葉を口にしたという事実が、一層の存在感を持っていた。
いつもの敷島なら、気の利かない言葉で濁して、もとの沈黙に戻っただろう。しかし今日は、そのまま静かに語を継いでいた。
「圧倒的な情報不足、系統立った作戦の欠落、戦力の逐次投入に、果てのない消耗戦」
ゆっくりと指折り数えていく。
「かつてない敵の大部隊が目の前まで迫っているのに、抜本的な戦略改変もせず、最前線は補給路を絶たれて、すでに潰走寸前であるのに、中央は実行力のないスローガンを叫ぶばかりで具体案は何も出せない」
敷島は指先から顔を上げて、静かに告げた。
「国家が戦争に負けるときというのは、だいたいそういう状況だといいます。感染症の話ではなく、世界史の教科書の話ですけど」
静かであった。
八人の医師が、誰も口を開かなかった。
敷島自身、自分がなにを伝えようとしているのか、明確な意思を持っていたわけではなかった。ただ、胸の内に鬱積していた何かを、吐き出さざるを得なかったのだ。
「負け戦か、なるほどな……」
つぶやいたのは、会議室の隅に座っていた循環器内科医の富士だ。八人の中で三笠よりも年配の六十二歳、医局の最高齢である。敷島以上に無口であるから、普段会議で口を開くことはない。その老医師がしわがれた声で続けた。
「敷島先生の指摘にもうひとつ付け加えてもいいかもしれない。根拠の希薄な楽観主義という精神だ。政府としては、ワクチンが来るまでの辛抱だと思っているのだろう。まだ届いてもいないワクチンのね」
低くしわがれた声に、隣に腰かけていた神経内科の春日が、大きな黒縁眼鏡を持ち上げながらため息をつく。
「仮にワクチンが有効だとしても、世の中に行き渡るのに、あと数か月はかかりますね。気の長い話です」
「それまで、僕らはカミカゼということかい」
肝臓内科の日進がこぼした皮肉めいた忍び笑いに、糖尿病内科の音羽が肩を落として答える。
「本当にカミカゼみたいな目にあうのは、私たち以上に、外来に来ている患者さんだと思います」
その通りだろう。
その通りだとしても、敷島たちにできることは限られている。
言葉にならない重い空気の中で、やがて敷島は軽く頭を下げた。
「すみません。余計なことを言いました」
いや、と三笠が首を振る。
「敷島先生の言うとおりです。我々はすでに、経験したことのない領域に足を踏み入れつつあります。そのことをもう一度認識しなおして、私も院長とともに、市役所や、患者受け入れに二の足を踏んでいる他の医療機関に、現場の窮状を強く訴え続けていくつもりです」
三笠の言葉に、それ以上口を挟む者はいなかった。
三笠は内科の部長とはいえ、突き詰めれば病院の一内科医にすぎない。行政を動かす権限もなければ、他の病院に指示を出す立場でもない。そのことは、誰もがわかっていることであった。
重い沈黙を押しのけるように、三笠は語調を改めて続けた。
「まずは今日の診療です」
その手がすぐ傍らのスクリーンを示した。
「現在、入院患者は二十三名。すでに定員超えの状態です。本日退院が一名。ホテルへの転出が四名」
スクリーンに今の状況を示す数値の一覧が表示される。
三笠は必要最低限の情報を医師たちに伝えていく。
「高齢の患者が増えており、死亡者の数は確実に増えています。高齢者が受診した場合は、症状が軽くても油断しないように。また、五十代、六十代の患者にも、急速に悪化する例があるという報告が増えています。入院患者の方も確認を怠らないようにしてください。今朝方、筑摩野中央医療センターから連絡がありましたが、数日前に当院から搬送した五十代の患者が残念ながら亡くなったとのことです。気を緩めることなくがんばっていきましょう」
穏やかな声がそのまま閉会を告げた。
すぐに医師たちが立ち上がって動き出す。
そのざわめきの中、敷島は遅れてやってきた衝撃からしばし身動きが取れなかった。一瞬、なにが衝撃的であったかさえ、わからなかったほどだ。
しばし沈思し、それから、ちょうど目の前を行きかけた三笠を呼び止めていた。
「三笠先生、亡くなった搬送患者さんというのは……」
言い淀む敷島の言葉を、素早く理解したように三笠が応じた。
「五十八歳の男性だと言っていました。そうですね、先生が搬送してくれた患者さんです。若い患者だが糖尿病があったらしい」
「糖尿病といっても重症ではありませんでした。どういう経過で?」
「詳しいことまでは確認していません」
手元の書類に目を落とした三笠は「ただ」と言って顔を上げた。
「あっというまだった、と言っていました」
三笠は抑揚のない声でそれだけ告げて、歩み去っていった。
皆がいなくなったあとも、敷島はすぐには動けなかった。