小原 晩「はだかのせなかにほっぺたつけて」第1話

小原晩「はだかのせなかにほっぺたつけて」第1話
ある人の、ある恋の、ある時のこと。

 第1話 
冬 服


 ふざけた女ですよ。だって、まず、おかしいでしょう。いきなり出張に行くなんて、前日に決まるのもおかしいし、それから一週間、僕がなんど連絡をしても返信がないですしね。それでやっと帰ってきたっていうから、短くていいから返信してよ、心配だからって怒ろうとしたら、彼女、すきなひとができたって言うんですよ。メールですよ。文面ですよ。おかしいでしょうそんなの。僕は、僕たちは、まだ付き合って一ヶ月も経っていなかったんですよ。いなかったんです。熱々なんです。だったんです。すきなひとができたから、もう会えませんって、僕はね、そりゃあ、引き下がりませんよ、電話しましたよ、なんどもかけました、なんどかけても出ないから、メールをしてね、どうして電話に出てくれないのって聞いたら、怒られたくないからって言うんです。怒られっ、怒られたくないって、それはなんなんですか。そんな、もう、僕はね、でも、それでも、怒らないから、ぜったいに怒らないから、約束するから、せめて電話に出てほしいって言ったんです。そしたら彼女ね、電話に出ましたよ。もしもし、僕が言ったらね、ちいさな声でね、はい、って彼女こたえるんです。もしもしには、もしもしでしょう。そんなところで反省の色をだされてもね、困るんですよ。困るんですけど、その、風邪とか、そういうのは大丈夫? 聞きましたよ、僕は。だって、僕は、すきなのだもの。そしたら、彼女、だまってしまってね。どうしてだまっているの? 聞いたらね、ごめんなさい、って言うんです。それで、相手のひととは付き合っているのって聞いたら、それはまだだって言うんです。それはさすがに、あなたに悪いからって。言うんです。さすがに、ってなんだろうと思いながらもね、ながらもですよ。まだ付き合っていないなら、もしかしたら、僕は、その男に、まだ勝てるんじゃないかって、だって、いまこうして、声をきいて、付き合っているのは僕ですからね。えっと僕は赤ワインをデキャンタでお願いします。すかいらーくグループの赤ワインってね、透明な飴玉みたいな味がするんですよ。つまみは要りません。吉田さんは食べたかったら、すきに食べてくださいね。僕はお腹いっぱいなんです。やけ食いは昼にすませましたから。それで、話を戻しますけどね、ああ吉田さん。今日は話を聞いてくれてありがとうございます。もう僕には吉田さんしかいませんからね。おねがいしますよ。それでね、そう、そうですよ、ああ、ちゃんと聞いてくれてるんですね、吉田さん。あのね、僕は彼女に、会おうって言ったんです。今から会いませんかって。どうしても、会いたいって。彼女ね、最初はいやだって言いましたよ、でもね、僕に申し訳ないという気持ちがあるなら、それなら、せめて、最後に会ってほしいって、僕はそうやって言いました。そしたら、ぜったいに怒りませんかって、彼女、訊くんです。怒らないよって言いました。それでね、下北沢の、あのローソンの、ところでね、僕たちは待ち合わせてね、会うのは、たぶん、そうだな、一週間と三日ぶりだったんですけど、彼女は、あいかわらず、すてきでね。やっぱり、僕のすきなタイプとはちがうのに、ちがうのにね、なんだかすごいいいんですよ。それでね、僕、気づいたら口から出てましたよ。かわいいねって。そしたらうれしそうにするんですよ。どういうつもりか、僕にはさっぱりわからなくて、それでも今は、たった今は、僕が、別れを、了承するまでは、僕の彼女なんだと思ったら、なんていうか、すっごい大股で歩いてやりたいような、そんなきもちでした。それでね、僕の家に行ったんです。一緒に観ようって約束していた映画があったから。僕が出ている映画なんですけどね、ほら、五年前のやつです。吉田さん、吉祥寺の映画館で観てくれたじゃないですか。「裸足の女は蚊帳の外」です。そう、もうあれから五年ですよ。最近ね、それがアマゾンプライムに入ったんですよ。だからね、せっかくだからみようって。発泡酒を飲みながら、うずらの卵を食べて、彼女は僕の膝のなかに入ってね、二時間、無言で観ましたよ。彼女、泣いたりなんかして。僕はその涙を拭ってやったりなんかして。暗い部屋のなかで、彼女と僕の顔だけが照らされてね。きれいでしたよ、涙を流す頬っていうのは。涙の味ってやつを知るのなら、それは彼女の涙がいいなって僕は思ってね、じゃあ舐めてみようかなって、でもね、今日だけ、ほんとうにもう今日で終わりなら、舐めたいけれど、これからも関係がつづくなら、舐めることはできないでしょう。できませんよ。彼女は変態がきらいなんです。だからね、僕は彼女の頰を、顎を、舐めませんでした。彼女に聞いたんです。僕のことはもうきらいですかって。そしたら彼女ね、きらいじゃないよ、すきだよって言うんです。びっくりしました、そうなんだ好きなんだって、思いました。だって、そんな、僕のことはすきなのに、どうして他にすきなひとなんてできるんだろうって。そしたら彼女、あなたへのすきの気持ちのおおきさは変わってないの、でもね、あのひとへのすきのほうがおおきいの、おおきくなってしまったの、って言って、また泣くんですよ。彼女はね、僕が泣く前に、いつも泣き出すんです。それが彼女の肝なんですよ。まるで不可抗力みたいに、被害者の顔で泣くんです。僕はね、だんだんと、ゾクゾクしてきてね、これは、もう、思うよりも言うほうが早かったんですけどね、僕は二番目でもいいよ、って言いました。よくないですよね、わかってますけど、だって、彼女、僕にね、抱きしめられたらね、いや、抱きしめたのは僕ですけどね、犬ころの目で、きらきらうるうるするんです。だからね、二番目でもいいからまたこうしたいなって、そう思ってしまったんですよ、思ったんですから仕方がないじゃないですか。噓はつけませんよ。恋なんですから。僕ね、そのまま、彼女の服を脱がそうとしました、こうなったらもう、なんというか、そういう雰囲気なんじゃないかって。でもね、彼女、それはだめって、それはできないっていうんですよ。どうして、ってきいたら首を横にふるし、だめなのってきいたら縦にふるし。でも彼女の嫌がることはもちろん、するつもりはないから、そういうことはしないまま、夜が明けていきました。彼女ね、付き合いたてのとき、僕が YUKI をすきだって知っているからなのかどうなのかわからないけれど、メランコリニスタを歌っていたんです。シャワーを浴びながら。シャワーの音と、彼女の下手なメランコリニスタが聞こえているその何十秒、僕はどきどきとして、ほんとうにしあわせでした。始発の時間になって、彼女を駅まで送りました。僕ね、言いました。冬服の君が見てみたかった、って。きっとすごくいいものだっただろうな、って。彼女、そう言ったらわらってね、すごくうれしそうにわらって、あなたと出会えてよかった、って前を見たまま言いました。僕はね、そのとき、彼女を送ったら、富士そばで、かつ丼でも食べようと思いました。吉田さん、ねえ吉田さん。ふざけた女との思い出なんて、これっきり捨ててしまおうと思うんです。でも、吉田さんには聞いてほしかった。吉田さん、聞いてくれてありがとう。はい。はい。スピッツのチェリーですか。いやいやいや。だめですよ。僕は、彼女のことを、きっと忘れます。冬服の感じも知らない女のことは忘れます。僕はね、今日、彼女のことを、吉田さんの胸に仕舞いにきたんです。パフェーなら何杯でもおごりますから、吉田さんの胸に、朧げな感じで、夏の彼女を、仕舞っておいてもらえませんか。迷惑は、どんと承知です。

 


小原 晩(おばら・ばん)
1996年、東京生まれ。2022年、自費出版にて『ここで唐揚げ弁当を食べないでください』を刊行。独立系書店を中心に話題を呼び、青山ブックセンター本店では、2022年文芸年間ランキング1位を獲得した。その他著書に、初の商業出版作品として23年9月に『これが生活なのかしらん』を大和書房から刊行。

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