小原 晩「はだかのせなかにほっぺたつけて」第16話

小原 晩「はだかのせなかにほっぺたつけて」第16話
ある人の、ある恋の、ある時のこと。

 第16話 
惰性でするキス、夏のキス


 ハマチくんとはじめてデートをしたのはことしの夏の夕方で、わたしの家の近所の中華料理屋で、ハマチくんは紹興酒をちびちびとなめながらわたしのことを待っていた。ハマチくんは餃子とラーメンを頼んだというので、わたしは瓶ビールと青菜炒めをたのんで、ハマチくんに手酌してもらった。瓶ビールはあまり冷えていなかったので、もうこの店にはこないだろうな、と思いながら、なかなか目の合わないハマチくんのことをときどきのぞき込むようにしておしゃべりをした。ハマチくんは明るいたちではなさそうなのに、誰かのことを話すときは、かならずそのひとのものまねをするから、そのたびに笑わなければいけないような感じがあって、わたしはそれがすこしだけいやだった。

 ラーメンをきれいに平らげたハマチくんは、まただれかのものまねをしたような口調で「赤ワインはいけるかい」とわたしに聞くので、赤ワインはすごくいけますよ、と答えた。「ちょっと歩こうか」言われるままに、ほんとうはちっとも歩きたくない、まだまだ暑い夏の夕暮れのなかをちぼちぼ歩いた。もう、日が、落ちる、というそのとき、ハマチくんはローソンへ入って、赤ワインと6Pチーズを買ってきた。ハマチくんは、ぼそぼそ「うーん、こっちかな」とかなんとか言いながら、また歩きだすので、ついていくと、大きな公園に入っていき、その隅のちいさなベンチに腰かけた。横に座ると、ハマチくんはトートバッグのなかから、ジップロックに入った紙コップをとりだした。あ、紙コップ。と言ったわたしをハマチくんは無視して、無言でわたしに紙コップを渡し、赤ワインをそそいでくれた。風にゆれる木々の姿や、雲のながれるさまをみながら、わたしたちはあまりしゃべらず、安っぽい味のする赤ワインをぐいぐいのんだ。三〇分もたたないうちにボトルは空になってしまったから、わたしたちはもう一度ローソンへ赤ワインを買いに行った。そのときかすかに手はふれて、街灯がきちんとわたしたちの輪郭を照らさない間だけ、わたしたちは手をつないでみたのだった。ハマチくんの手のひらはぶあつくて、かさかさとして、さびしいさわりごこちがした。

 二本目の赤ワインをのみながら、こんどは大いにおしゃべりをした。ハマチくんはわたしがわたしの恋人の悪口を言うとうれしそうにしたけれど、自分の恋人のことはなにひとつ教えてくれなかった。ところで、いま、たいせつなのは、瞬間風速、しゅんかんふうそく、なのだから、とわたしは言ってみて、すると、たちまち、赤のワインは、ふたりのうるんだ瞳から爪先までをぐるぐるまわって、わたしたち、公園のベンチで、スニーカーを、ズボンの裾を、土でよごしながら、せいいっぱいにくちづけた。

 くちづけにも飽きてきたころ、ふと、鉄棒が目についた。

 さかあがり、できる? と聞いてみるとハマチくんはうなずいたので、嘘だ、できないよ、もう大人なのに、とわたしは笑って、じゃあ、十円かけよう、ハマチくんがさかあがりできたら十円あげる、でも、わたしができても十円ちょうだい、と言うと「いいよ」ってハマチくんは言ったのだった。じゃあわたしから、と鉄棒ってこういうサイズだったっけと思いながら、ロンTの裾のとこに鉄のサビがついたらいやだな、でも、と思いながら、地面を蹴って、足を、真上に、星に、けれど、わたしのからだはひっぱられるように地面に落ちた。ハマチくんは薄く笑って、それから、鉄の棒を、ぶあつくて、あたたかい、かさかさとした手のひらでつつみ、「ほ」とちいさく声を出して、くるりとまわってみせた。わたしは拍手をして、財布から十円をとりだした。ハマチくんは、いいよいいよ、と断ったけれど、わたしはすごく強引にハマチくんに十円をあげた。ハマチくんのさかあがりはとてもきれいでなめらかで、ハマチくんの手のひらとも、くちづけともぜんぜん似ていなかった。

 


小原 晩(おばら・ばん)
1996年、東京生まれ。2022年、自費出版にて『ここで唐揚げ弁当を食べないでください』を刊行。独立系書店を中心に話題を呼び、青山ブックセンター本店では、2022年文芸年間ランキング1位を獲得。24年に大幅な加筆を経て実業之日本社から商業出版された。その他著書に『これが生活なのかしらん』(大和書房)がある。

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