武塙麻衣子「一角通り商店街のこと」2. 鶴亀湯

武塙麻衣子「一角通り商店街のこと」2

〜大学生の雄士とごはんの話〜

2. 鶴亀湯


「じゃあ二限のあとまた学食でね」

 九時十五分から受けていた一限の健康科学概論の授業がやっと終わり、教室を出たところで雄士ゆうじはユンくんと別れた。この後、雄士は二人が今いるのと同じ六号館の別教室で宗教史を、ユンくんは本館に移動して日本語コミュニケーション論の授業を受けることになっている。ユンくんは韓国からの留学生で、日本語も英語もかなり流暢に話すトライリンガルだ。

「ユンくん、これ以上日本語の授業なんて受ける必要ある?」

 先月、雄士が授業での発表に使う英語の資料を四苦八苦しながら作っていたとき、見かねて手伝ってくれていたユンくんは、きょとんとした顔で頷いた。

「まだまだ勉強したいことがたくさんあるから」

「真面目だなぁ」

 雄士が思わず言うと、ユンくんはふふふ、と笑った。決して悪いことではないはずなのに、人から真面目だと言われるとなぜかムッとしてしまう。それがわかっているのについユンくんに向かって真面目だと言ってしまい、雄士は一瞬焦ったが、ユンくんはそんなことはちっとも気にしていないようだった。雄士は、自分のことを勤勉とまでは思わないが、周りの一般的な大学生よりは真面目な方だと思っている。そしてユンくんは、その雄士よりも更に輪をかけて真面目に見えるのだった。

 辞書や教材がたくさん入った重そうなリュックサックを背負ったユンくんのひょろりとした背中が階段を降りるところまで見届けてから、雄士は、廊下を左に進み、端の階段を昇ってすぐの、古いけれど日当たりがよく気持ちの良い大きな教室のドアを開けた。宗教史は、教授の講義を聴くだけなので、退屈といえば退屈で、出席票だけを提出してあとは後ろの方の席で眠ったりSNSを見たりしている学生も多いが、雄士は意外とこの授業が気に入っている。雄士の実家は、お盆には迎え火と送り火を焚き、お彼岸にお墓参りをして、クリスマスにはプレゼントを交換するしツリーを飾ってケーキも食べる。お正月には初詣に行き、おせち料理を食べてお年玉をもらう。家族それぞれの誕生日ももちろん祝う。そういうごっちゃな年中行事が一通りあることが普通の環境で育った雄士は、それをこれまでまったく疑問に思わずにいた。しかしそれらが決して当たり前ではないのだということを、恥ずかしながら大学に入って初めて雄士は知ったのだった。たとえば宗教史の講義では、自分が今まで知らずにいた様々なことに触れられる。長い歴史の中で、人々が何を信仰し、何を恐れ、敬ってきたか、またそれらを利用するものの台頭や衰退。相容れない国と国、人々。宗教上の理由で祝ってはいけない日や事柄があることや、口にしない食べ物、飲み物。そういうことが今はとにかくみんな興味深いのだと周りに話すと、雄士は真面目だなぁと言われてしまうのである。

 

 四月は、雄士の今までの人生で一番あっという間に過ぎていった。オリエンテーションに参加して何がなんだかわからないまま履修を組み、とりあえず登録を済ませた。平日は、朝から夕方までかなりびっしり入ってしまった講義をなんとか全コマ受けて、必修科目のクラスで顔を合わせる数人と一緒に勧誘されたサークルを覗いたりしている内、すぐに週末がやって来る。土日はというと、午前中はひたすら眠り、二時頃に起きて簡単に部屋の掃除をして一週間分の溜まった洗濯をすませるためアパート近くのコインランドリーに行き、そのままちょっとぼーっとしているとすぐに日が暮れる。乾いた洗濯物を置きに一旦アパートに戻り、商店街に行って惣菜を買って帰って食べてシャワーを浴びればもうまたすぐに眠くなってしまうのだった。アパートの浴槽がわりと立派なことを初めのうちは単純に喜んでいた雄士だったが、毎日湯船に浸かるというのは、当たり前だが水道代とガス代がかかる。さらに毎回の風呂掃除も必要となるとなかなか頻繁にはお湯を溜めにくいな、と思い始めたところだった。実家での風呂掃除は、その日最後に入浴した人がすることになっていて、それはかなりの頻度で雄士の仕事だった。だから掃除自体には慣れていたけれど、いざ一人暮らしをしてみると、やった方がもちろん良いけれど別にやらなくても死にはしない類いのことはできるだけやりたくない。

「だけどシャワーだけじゃなんかすっきりしなくて」

 雄士がぼやくと、ユンくんが言った。

「アパートの近くに銭湯があるなら行ってみたらいいと思う」

「銭湯?」

「そう。僕は日本の銭湯もけっこう好き」

「あれ、韓国にも銭湯ってあるの?」

「あるよ。でも銭湯というかサウナかな」

 雄士は、これまで銭湯にもサウナにも行ったことがなかった。

「じゃあ、探してみるわ」

 ユンくんが好きだというなら本当にいいのかもしれないと思ったものの、やはりあまり気が進まない。父親がいなかったせいもあって、銭湯やプールのような着替えのために男女別の更衣室がある施設に家族で行くことが少なかった。母と妹と祖母が一緒で自分は男だから一人だけ別、というのが小さい頃は悲しかったし、怖かったからだ。それで、銭湯には少し苦手意識があるのだと思う。

 そうこうしている内にすぐにゴールデンウィークに突入し、雄士は迷ったけれど実家には帰らないことにした。

「だって交通費もかかるし」

 母からの電話にそう答えると、母はあからさまにがっかりした声を出した。

「何よ、それくらいこっちで出すわよ。おばあちゃん、あんたに会うの楽しみにしてるのに」

 祖母を引き合いにだされてしまうと弱い雄士ではある。

「夏休みには長く帰るから、おばあちゃんによろしく伝えて」

「ちゃんとLINEも送ってあげなさいよ」

「うん、わかった」

 なにしろ課題が多くて、とか友達と予定があるから、とかそれらしい理由をつけて雄士は電話を切った。こちらでの生活には何の不満もなく、大学も毎日とても楽しい。だからゴールデンウィークに実家に帰ってしまうと、この一か月せっかく一生懸命に積み上げてきたものが一気にばらばらと崩れてしまうような気がする。東京での新しい生活が実は全部ただの夢だったんじゃないか、と怖じ気づいてしまいそうだった。

 

 とはいえ、実はゴールデンウィーク中の予定はほとんどない。明後日、帰省しないメンバーのうちの一人の部屋に集まって遊ぶだけだ。大阪出身の子が持ってきたたこ焼き器を使ってたこ焼きパーティーをしようという話になっている。たこ以外で生地に入れたら面白そうな具を一人一種類買って持ち寄る決まりだ。

「キムチはユンくんが持ってきそうだもんなぁ」

 何だったら面白いだろう。でも面白いだけではだめで、きちんと味も良くなければならないのだ。しばらくスマホを見てたこ焼きのレシピを検索していたが、良いアイディアが浮かばず、雄士は立ち上がった。

「買い物でも行くか」

 時計を見ると午後五時。一角通り商店街が賑わいはじめる時間帯だ。このところ、雄士はすっかり商店街の豊倉惣菜店にお世話になっている。チキンカツやビーフコロッケなどを一つと、野菜のおかずを一つ買う。南瓜の煮物やごぼうのきんぴらとか、ポテトサラダなど。そうすると、豊倉のよねさんが時々「サービスよ」と言って余っている煮玉子をひとつつけてくれるようになったのである。

「昨日いただいた煮玉子、すごく美味しかったです」

 先月、初めて豊倉惣菜店で買い物をした翌日またすぐに店に行き、煮玉子のお礼を伝えた。よねさんは、雄士の来店をとても喜び、

「お腹が空いたらまたいつでもこの店に買いにきたらいいよ」

 そう言って、天ぷらが美味しい店や、野菜の鮮度がいい店、トイレットペーパーなど生活用品がうんと安く手に入る店なども教えてくれた。

「え、天ぷらって高そうじゃないですか?」

 雄士の言葉に、よねさんは首を振る。

「うちの惣菜とそんなに変わらないよ。あたしのおすすめはね、小海老とまいたけ。今度行ってごらん」

 雄士は米を炊けるようになったので、忙しそうな週は多めに炊き、冷凍してストックを作っている。本当は大学にお弁当を持って行けるくらいになれば食費の節約になりそうだけれど、それにはまだ料理の腕がなんとも追いついていない。最近になってやっと目玉焼きの黄身を好みの固さで焼けるようになってきた。電子レンジで温め直した米の上にとぅるんと目玉焼きを移して、醬油を回しかけて食べるのがなんとも美味しい。

「あ、よねさん」

 今日、雄士が買ったのはハムカツだ。いつも通りパックに輪ゴムをかけながら、よねさんはカウンターの向こうで振り返った。

「この辺って銭湯はありますか」

「お風呂屋さん?」

「はい」

 よねさんは、店の奥に声をかけた。

「修太、鶴亀さんてもう営業してるんだっけか」

 ごそごそしばらく音がした後、床から一段上がったところのガラス戸が開いた。

「やってるよ」

 中から顔を出したのは、高校生の修太だ。

「あ、どうも」

 彼は、雄士を見るとぺこりと頭をさげた。

「こんにちは」

 つられて雄士もお辞儀する。

「雄士さんの部屋ってお風呂ついてないんですか?」

 人懐っこい修太は、会ってまだ日の浅い雄士をもう下の名前で呼んでいる。

「あることはあるんだけど、毎日お湯を溜めるのはもったいないし、掃除も毎日は面倒でしょ。でもお風呂は好きだからさ。時々ゆっくり身体を伸ばすなら銭湯はどうかって大学の友達に言われたんだ」

「なるほど」

 ガラス戸の下に置いてあったサンダルを突っかけて修太が店の中に出てきた。カウンターによりかかりながら店の前の通りを指さして言う。

「商店街の一番端に鶴亀湯っていう銭湯があります。この前まで改装工事で休んでたけど、先週またオープンしたんです。で、これオープニング割引券」

 ポケットから取りだしたくちゃくちゃの紙をぽんっと一枚、修太がカウンターの上に置いた。

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