武塙麻衣子「一角通り商店街のこと」4. 喫茶ネムノキ

武塙麻衣子「一角通り商店街のこと」4

〜大学生の雄士とごはんの話〜

4. 喫茶ネムノキ


 大学が夏休みに入った途端にぽかりと時間があいた。前期は、一限の授業が週に四回あったので、平日はほぼ毎朝七時に起きていたのが急にその必要がなくなり、布団の中で一度目が覚めてもいつの間にかまたとろとろと寝てしまう。周りが騒ぐほどにはテストもレポート提出も大変ではなかったので、拍子抜けしたところもありつつ、この数ヶ月があまりに早く過ぎたことに雄士ゆうじは驚いていた。小学生の頃なんて毎日がとにかく長くて退屈で、夏休みや冬休みがものすごく待ち遠しかったのに。

 ユンくんは、従兄弟の結婚式があるとかで韓国の実家に帰り、そのままのんびりして八月まで東京には戻ってこないらしい。

「次は、雄士も一緒に行こうよ。美味しいものがたくさんあるよ。今回はお土産買ってくるね」

 ユンくんはとても嬉しそうにそう言った。雄士もお盆には帰省の予定だが、それまでは人と会う予定も特にない。春から三ヶ月続いた毎日の勉強から解放され、サークル活動はしておらず、仲が良いユンくんも留守となると、雄士の生活はとにかく暇だった。春に同じクラスの何人かと覗きに行ったフットサルのサークルに、雄士は結局入らなかった。体を動かすことは嫌いではないけれど、毎週フットサルをしたいかというとそういうわけでもない。

「適当につるめていつでも遊べていいじゃん。学食とかで知り合いもすぐ見つかるし」

 人とわいわい賑やかに過ごすことも苦手ではないけれど、毎日は遠慮したい。

「お前ってけっこう冷めてるよな」

 というクラスメイトの中島なかじまの言葉には思わず苦笑いした。

「お兄ちゃんて冷めてるよね。人生つまんなそう」

 いつだったか胡桃くるみにもそう言われたのだ。胡桃は、ちょっとしたことですぐに泣いたり怒ったり、そうかと思えばもうけらけら笑っていたりと忙しく、それは雄士にしてみれば信じられないことなのだけど、母も祖母も、そういうものよと言う。

「あんたは、何に対してもなんかこう一歩引いたところがあるのよね。あの人に似たのかしらね」

 母は、雄士と胡桃の父親のことを、あの人と呼ぶ。そして実家では「あの人」の話は基本的には御法度であり、母のみが、しかも気の向いたときだけ話題に出してもよいことになっている。そんなふうだから突然ぽろっとあの人に似たのかなどと言われても、雄士にはまるで答えようがなく、また当然反論の余地などあるはずもない。

 学生の本分は勉強なのだから、一年生の前期からアルバイトを詰めこむ必要はないと母に言われ、これまでは仕送りの範囲内でやりくりしてきた。しかし、夏休みに入り、こうも暇で、かと言って自由に遊べるお金もあまりないとなれば、やはり働くべきだ。そこまで考えたところで、雄士は、首を傾げてしまう。一体自分には何のバイトが向いているのだろう。近所のコンビニや居酒屋にしばらく前からアルバイト募集の貼り紙があることは知っていた。中島は、つい最近電力会社のコールセンターのバイトを新しく始めたそうだ。面接はリモートで履歴書もいらず、ほんの数分でさっと決まったらしい。電気料金のプランを見直したい、とか支払い方法を変更したいといった内容の電話を受け、マニュアルに沿って丁寧に根気よく(ここが一番のポイントだと言っていた)案内をし、電話を切った後に話した内容をPCに打ち込むだけだからとても楽らしい。塾講師は、ぱっと見、時給はいいけれど、時間外にやらなければいけないこと(授業の予習をするとか、休んだ子の家に理由を聞くために連絡するとか)が多すぎるのが難点だとしたり顔で言っていた。ずっと座りっぱなしよりは体が動かせる方がいいな。なんとなくだが、雄士はそう思う。あとは賄いがつくともっといい。そうだ、美味しいものがある職場がいいんじゃないか。考えていたらお腹がすいてきた。午前中、暑くなる前に買い物をしてきてしまおうと目をこすって起き上がり、枕元のスマホを見るといつの間にかもう十一時だ。やっべ、まじでだらだらしすぎ。そう呟いて雄士はこきりと首を鳴らした。

 

 ブーブッブッ。枕元からテーブルに移動させた途端にスマホが鳴った。修太しゅうたからのLINEの通知だ。

「宿題、ちょっと教えてもらえませんか」

「いいけど理数系は無理だよ」

 返信すると間髪容れずに戻ってきた。

「国語です。読書感想文なんだけど」

 じゃあ、三十分後にお店で、と約束をして雄士は洗面台に戻り、顔を洗って歯を磨いた。読書感想文という言葉はなんだかとても遠く感じる。修太は、料理も上手だし高校生にしてはかなり落ち着いて見えるのだが、でもそうか、まだ宿題で読書感想文を書かなければいけないような年齢なのだ。それにしても、読書感想文の相談を受けるなんてことは人生で初めてだ。読書は昔から好きな方だが、だからと言ってこれまでに文章を書いて褒められたことは特になかったと思う。俺でいいのかな。

 

「あら、雄ちゃん。もう晩ご飯の買い物?」

 豊倉とよくら惣菜店のカウンターの中では、修太の祖母のよねさんが揚げたばかりのチキンカツを、コロッケの隣の皿に盛り付けている。その隣には、分厚いハムカツだ。

「いえ。修太くんから宿題を見てほしいって言われてて」

「あらやだね、あの子ったら。雄ちゃんだって忙しいでしょうに。じゃあお礼におかず用意しておくから終わったら持って帰ってくれる?」

「ありがとうございます。助かります」

 豊倉惣菜店は、店舗の奥とその二階が住居になっていて、よねさんと息子さん夫婦、孫の修太が住んでいる。商店街のアーケードと並行している一本裏の道側から、豊倉家の玄関でチャイムを鳴らして家に上げてもらうことももちろんできる。だが、雄士は、商店街の店舗側から、お邪魔しまーすと言って入っていくちょっと特別な空気が好きなのだった。

 忙しく立ち働くよねさんの横を通って、奥で野菜を切っている修太の父に挨拶をしてから、店舗と住居の間仕切り戸をノックしてがらりと開ける。

「またそっちから来たの」

 廊下の向こうからひょいと顔だけを出して修太が笑った。

「あがってあがって。その辺座って」

 そう言って立ち上がり、台所の冷蔵庫から麦茶がたっぷり入ったピッチャーを取り出してきて、とぷとぷとグラスに注いでくれた。

「雄士さんて変だよね。店なんて別にめずらしくもなんともないのに、なんでこっち側が好きなの」
暑かったっしょ、とエアコンの温度を少し下げ、畳んだ新聞の山の下から器用に商店街の名前入りの団扇を抜きだしてこちらに渡し、つきっぱなしだったテレビをすっと消すところなどがやはりこの子はしっかりしているなぁと思う。胡桃と同い年とは思えない。

「で、読書感想文て大変なの?」

 今時、ネットでちょっと検索すれば読書感想文の書き方のコツなどテンプレートがいくらでもありそうだ。

「まあ、そうなんだけど」

 修太は肩をすくめ、そのあと照れたように笑った。

「今年の現国の先生がさ、可愛いんだよね」

「へ」

 雄士は一瞬ぽかんとし、それからああ、と頷いた。

「それでできるだけいい感想文を提出したいってこと?」

「でも俺、国語だめでさ。そもそも本も苦手だし」

「よくそれで読書感想文なんか書こうと思うな」

「だって若菜ちゃんに褒められたいじゃん」

「若菜ちゃんて……」

「可愛いんだよー。なんかさ、いっつも一生懸命なんだよ」

「じゃ、授業もちゃんと聞いてんだ」

「いや、それはまぁまた別の話なんだけどさ」

「なんだよ、それ」

 顔を寄せ合って馬鹿みたいな話をしてどっと笑う。つい今年の春までは、まったく存在も知らなかった相手と大声で笑っているということが雄士にはいつまで経ってもなんだか眩しい。

「でさ、どの本を読めばいいか雄士さんが決めてよ」

「え。責任重大なんだけど」

 学校から配られたという推薦図書のリストをぱらぱらとめくる。

「修太はどういうテーマなら書きやすいと思う? 青春とか、愛とか」

「げ。愛なんて無理無理」

「恥ずかしいか。そうするとたとえば戦争とか、気候変動についてとか絶滅危惧種の生き物の本とか」

「でもさあ」

「わかる、なんか付け焼き刃っぽくなっちゃうよな。でもいいんじゃない。たくさん調べてレポートにまとめて提出するとかじゃなくて、あくまで本を一冊読んでそれについての自分の感想を書くんだもん」

 修太が浮かべる情けなさそうな顔に、雄士は思わず噴き出してしまった。修太ときたらまるでしょんぼりした大きな犬みたいだ。

「大丈夫だよ」

「じゃあ、雄士さん、本屋に付き合ってもらってもいい?」

「商店街の?」

 一角通り商店街には、小さいが書店が一軒ある。確かよねさんと同じくらいの年齢の女性が経営者だったはずだ。

「あの店、小さいけどこういう推薦図書は、毎年ちゃんと仕入れてくれてるんだ」

「いいよ、じゃあ行こっか」

 修太がいれてくれた麦茶を飲み干し、雄士は立ち上がった。今朝まで、なんて暇でつまらない一日だろうと思っていたけれど、どうやらそうでもないようだ。

週末は書店へ行こう! 目利き書店員のブックガイド vol.182 精文館書店中島新町店 久田かおりさん
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