武塙麻衣子「一角通り商店街のこと」11. 魚辰鮮魚店
〜大学生の雄士とごはんの話〜
11. 魚辰鮮魚店
十二月三十日に富山の実家に帰って、家族といつも通りの正月を過ごした。大晦日は、各自が年末にこそするべきだと思っていることをそれぞれする。雄士の場合は、本棚の整理(と言いつつ、懐かしい雑誌や漫画本をぱらぱらと読み始め、軽く一、二時間は過ぎる)で、胡桃と祖母は近くのショッピングモールでの買い物、母は年賀状書きだ。夕食は決まってすき焼きで、除夜の鐘が鳴り出す頃に全員で年越し蕎麦を食べる。昔、祖父が生きていた頃は決まってにしん蕎麦だった。祖父が好んで食べたからなのだが、にしん蕎麦は、実は子供の頃の雄士が最も苦手な食べ物のひとつだった。にしんのこってりとした味つけがどうにも蕎麦とは合わない気がしてなかなか箸が進まず、つゆに油が浮くのもどうせならかき揚げの方がいいのに、といつも思っていた。祖母が作る具だくさんのかき揚げは、海老と玉ねぎのほかに季節ごとに違う野菜が数種類使われていてとても美味しかったのだ。わざわざにしんにしなくてもかき揚げの方がずっと美味しいのに。
雄士にとって、大晦日の夜は少しばかり気の重い時間だったが、祖父は除夜の鐘を聞きながら、いつもとても嬉しそうににしん蕎麦を食べていた。その祖父が九年前に病気で亡くなってしばらく経つと、やがてにしん蕎麦は大晦日の食卓にのぼらなくなった。誰も口にはしなかったけれど、やっぱりみんなにしん蕎麦を好きじゃなかったんだな。今年も海老の天ぷらと巻きかまぼこが載った蕎麦を家族四人で食べながら、なぜか急にそんなことを雄士は思い出した。和室の仏壇に飾られているなんとも幸せそうな顔をした祖父の遺影は、加工でうまく切り取られているけれど、本当は手元ににしん蕎麦のどんぶりが写っていたものである。
元日は、近所に住む母方の親戚たちがちらほら集まり、いくぶん賑やかになる。小さいいとこたちも増えた。とはいえ、障子を外して広くなった和室に出されていたうんと長い座卓は、障子を外さなくても収まるサイズのものにいつの間にか変更され、おせち料理はかなり縮小された。年末に近所の鮮魚店に予約したお刺身のほかに、デリバリーのピザなどが少なくなったお重のかわりに並んでいる。子供の頃「ほら、自分の飲み物は自分で取ってきなさい」とよく注意されたものだけれど、そういえばこの家の親戚たちは、男性陣も子供もよく動く。自分の飲み物のお代わりは当然自分で作るし(お酒を濃くしたいというのもあるんだろうけれどそれにしても)、座りっぱなしの人というのがほとんどいない。みんなくるくる台所と和室とを行ったり来たりして、足りないお皿や新しい料理を運んできては、好きなものを好きなように勝手に食べている。雄士は、富山で迎える自分の家族の正月がとても好きだった。
それなのに長居せず、一月四日に帰ることにしたのは、シゲさんのことがあったからだ。
「富山で旨い魚いっぱい食ってる雄ちゃんにはあれだけども、こっち戻って落ち着いたら魚辰の魚で一杯やろう」というお誘いの LINE が、寛ぐココイチの写真とともに送られてきた。シゲさんもココイチもものすごく良い笑顔をしている。それを見たら、なんだか急にシゲさんに会いたくなった。
「魚辰さんに飲みに行くのに、富山の魚介をお土産に持って行くってのもなあ」
独り言を言いながら、リュックサックに荷物を詰めていると、祖母が両手に紙袋を下げてやって来た。
「雄ちゃんの好きな煮物、たくさん作ったから持ってってや」
「やった。いとこ煮?」
「うん。あと甘海老の昆布締め、冷凍しといたのも持ってくでしょ?」
「うわーありがとう」
祖母が腰をかがめて立っている居間の入口は、扉の木枠部分に雄士と胡桃の身長が毎年刻んであり、黒いサインペンで各自の名前も書き込んである。
「これ懐かしいでしょ」
母もやって来て、適当な高さの痕を指す。雄士が165センチだったのは、中学二年生の夏だ。ついに家族の誰よりも背が高くなったことに、誇らしさとそれから責任のようなものを感じたことをよく覚えている。それから更に14センチ、背はのびたけれど、中身はほとんど変わっていない気がするのはまあ仕方ない。
「ほらこれ。お世話になってる商店街の皆さんにちゃんとお渡ししてよろしくお伝えしてね」
母から渡された紙袋には、濃い紫と薄い紫の円がいくつも重なった柄の白えび煎餅の箱が積み重なって入っていた。富山で暮らしていた頃はほとんど食べたことのなかった土地の銘菓が、たった一年近く地元を離れただけで急に懐かしく思えるのだから不思議なものだ。さあ、家に帰ろうと思い、それもまた雄士には不思議な感覚だった。
「こんにちは」
魚辰鮮魚店の店先で少し声を張り上げた。ホースで水を使う音が、じゃばじゃばと店の外まで響いている。引き戸を開けて店内に入ると、入口左手のガラス張りになっている調理スペースから、二代目店主の辰野義克さんがホースを片手にひょいと顔を出した。
「おう、雄ちゃんか。シゲさんならもう奥に来てるよ」
ホースを持っていない方の手をあげて挨拶をし、そのままぐいと額の汗を拭う。魚辰鮮魚店には、義克さんが豊洲市場から仕入れてきたばかりの魚を求めて開店時間の十時から午後まで近所の常連客たちがひっきりなしにやって来る。切り身もあれば、まるごと魚一匹でも販売するし、もちろん注文すれば捌いてももらえる。二代目の義克さんも息子の克哉さんも陽気な人で、今日みたいに底冷えするような寒さの日でも常に楽しい会話が飛び交って明るい雰囲気の店だ。午後三時半、義克さんの仕事上がりと入れ替わりに克哉さんの妻の笑子さんが二階の住居から降りてきて、魚辰は鮮魚店兼立ち飲み屋になる。ショーケース内の刺身や、奥で調理された焼き魚、フライなどのお惣菜と一緒にビールや日本酒、ワインなどを飲むことができるので、買い物ついでにちょっと一杯、と寄っていく人もいるし、わざわざ立ち飲みだけをしにくる客もいる。オーブントースターがあるので、購入した揚げ物を温め直すことができるのも人気の理由のひとつだ。
ぴかぴかに磨かれて指紋ひとつついていない大きなショーケース二台の右奥に立ち飲みスペースが設けられている。重ねたビールケースに板を渡しただけのシンプルなテーブルにシゲさんが缶ビールを片手にこちらに背を向けて立っていた。
「シゲさん」
声をかけると、今まで見たこともないような嬉しそうな顔でシゲさんがこちらを振り返った。
「いよーう」
「あけましておめでとうございます」
テーブルの向かい側に回り込んで立つと、シゲさんは少し照れくさそうに、
「今日はなんでも食っていいぞ! 俺の奢りだ」
と笑った。先月の入院騒動のお礼ということらしい。さっそく缶ビールで乾杯をして一息ついてから、二人でショーケースを眺めた。白身魚やマグロの他に、富山産のブリもある。脂がのっていて美味しそうだ。
「あれ、ゲンゲがある」
雄士が驚いて思わず声に出すと、ショーケースの向こうに立っていた克哉さんが「おっ」と言った。
「わかります? 雄士くん、富山出身だって聞いたからどうかなと思って特別に仕入れてきちゃった。天ぷらにでもどう?」
「嬉しいです! じゃあゲンゲとあとブリをお願いします」
ゲンゲというのは、あまり知られていないが、富山湾で獲れる深海魚だ。ぬるりとしていて、見た目は少し変わっているけれど、祖母が時々唐揚げや煮付けにしてくれてそれがとても美味しかった。海の近いところで育つ子供たちは、どんな魚もよく食べる。克哉さんが、ショーケースからブリとゲンゲを下げた。
「あとは、なにかお刺身いりますか?」
シゲさんは、悩みに悩んだ末に、
「じゃあヒラメをくれ」
と言った。
「毎度!」
調理場に向かう克哉さんの背中は頼もしい。それにしても、と雄士は思う。ビールって、こんなに寒い冬に飲んでも美味しいんだなあ。ビールを美味しいと思えるようになった自分がずいぶん大人になったようで嬉しくなり、こんと音を立てて、缶を醬油と小皿の置かれたテーブルの上に置いた。上機嫌のシゲさんは、壁に貼られた魚偏の漢字一覧表を端から順に読み上げ始めている。
「お、雄ちゃん。魚偏に利益の利でなんて読むかわかるか?」
クイズを出し始めたシゲさんの楽しそうな様子は、昔の祖父と少し似ていた。
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