採れたて本!【デビュー#12】
時は大正時代末期。主な舞台は、江戸時代から商人の町として栄えた大阪・船場の平野町。代々続く老舗呉服商の長男として生まれた古瀬壮一郎は、店を義兄(姉の婿)に任せ、絵描きとして身を立てようと東京で生活していた。最愛の妻・倭子とともに過ごす、豊かではないが平穏な日々。だが、関東大震災によってその幸福はあっけなく崩れ落ちる。足にひどい火傷を負った倭子を大阪に連れ帰り、住居に改装された平野町の実家に戻って暮らしはじめたが、妻はあっけなく世を去ってしまう。悲嘆に暮れる壮一郎を怪異が襲う。倭子の霊は、まだこの世にとどまっているのか?
筋立てだけとりだすと平凡なゴースト・ストーリーにも見えるが、船場言葉を駆使した文章がすばらしく、大正時代の船場にたちまち引き込まれる。倭子は医者の娘で、壮一郎とは幼い頃からの顔見知りだった。回想シーンの一節を引用しよう。
私が小学生だったころ、店の「旦那さん」であった父が軽い肺病を患い、通り一本北の道修町から医者がよく往診に来ていた。医者を人力車で運ぶ車夫が表で「おみまぁい」と家の者を呼ぶのに合わせ、高く細い声が「おみまぁい」と舌足らずに真似をする。それが倭子だった。
最初は車夫の娘だとばかり思って、見かけると軽い気持ちで声をかけた。
「わての家な、幽霊が出るんや」
というのが、倭子をからかう常套句だった。
「そないして、おどかそういうても聞きまへんで」
そう言いながらも、怯えと好奇心の混じった目をしているものだから、こちらもついおもしろくなる。
「ほんまやて。わて、たんまにちらと見たことがあるんや。一度、藍地に葦模様の裾が廊下の角をすぅと曲がっていったんやけど、お母様も姉さんもそないな着物は着はらへんのや。女子衆は炊事場で忙しうしとったし、家の者やないんやったら幽霊やとしか思われへんやろ。どないや。その廊下、こっそり連れて行ってもええで」
新人離れしたこの練達の語り口が選考委員から絶賛され、第43回横溝正史ミステリ&ホラー大賞の大賞を受賞。さらに読者賞とカクヨム賞も射止めて、同賞史上初の3冠制覇をなしとげた。選評の一部を、いくつか抜粋する。
『をんごく』は優れた怪談小説であると同時に優れた「謎物語」にもなっていて、この塩梅がまた良い。終盤で明かされる「真相」には思わず「おおっ」と声が出た。(綾辻行人)
『をんごく』は、作品全体に滴るようなホラーの色気がある傑作だった。(辻村深月)
『をんごく』は情感、悲哀申し分なく、文章は格調高く台詞まわしには血が通っていて、一読、今年はこれだと確信させる小説だった。(米澤穂信)
小説は、倭子の霊を降ろしてもらうため、壮一郎が巫女のもとを訪れる場面で始まる。だが、どうも様子がおかしい。巫女は「気をつけなはれな」と壮一郎に警告する。「奥さんな、行んではらへんかもしれへん。なんや普通の霊と違てはる」
静かに忍び寄る恐怖と、たとえ死んでいても愛する人に会いたいという思い。二つの感情のせめぎ合いが物語を牽引し、やがてエリマキと呼ばれる妖怪が登場する。成仏できずにこの世にとどまる霊を喰らう存在。人の姿をしているが、エリマキは男でも女でもない。顔を持たず、自分を見た相手に、その人がもっとも強い思い入れを持つ人物の顔を見せる。だが、なぜか壮一郎にはエリマキの顔がのっぺらぼうにしか見えない。
倭子の霊を喰おうとするエリマキだが、〝何か〟に阻まれる。いったい何が邪魔をしているのか? そして、そもそもなぜ倭子は成仏できずにいるのか?
この謎を核に、小説の後半はミステリーのように展開していく。本文240ページにも満たない短めの長篇だが、じゅうぶんな奥行きを感じさせる。新人離れした文章力と構成力が光る、ホラーサスペンスの秀作だ。
『をんごく』
北沢 陶
KADOKAWA
評者=大森 望