小原 晩「はだかのせなかにほっぺたつけて」第4話

小原晩「はだかのせなかにほっぺたつけて」第4話
ある人の、ある恋の、ある時のこと。

 第4話 
はすむかい


 そのバーは坂の下にある古いたてものの二階にあった。

 扉を開けると、うす暗く細長い店内のすべてを見渡すことができた。前髪の短いひとと、めがねをかけたひとがカウンターのなかにいて、奥の席にどうぞ、と前髪の短いひとが言った。

 奥の席はソファー席で、小さな窓からは月が見えた。

 吉田さんはわたしの斜向かいに座って、テーブルの上に置かれた小さなメニューをぱらぱらとめくっている。

「いつもなにをのんでるんですか」と聞くと、
「ウイスキーですかね」と吉田さんは答える。
「のみ方は?」
「ロックです」
「どれを」
「てきとうに」
「じゃあ、わたしはラフロイグをロックで」
「好きなんですか」
「うん、好きなんです」
「すみません、ラフロイグをふたつください。ロックで」

 吉田さんは前髪の短いひとに言った。この店によく馴染んだ声色だった。

 前髪の短いひとは、うっすらほほえみながらうなずく。

「おなじのでよかったんですか」
「せっかくですから」
「ラフロイグは正露丸のにおいがしますけど、正露丸は好きですか」
「正露丸のことを好きだと思ったことはないです」
「そうですよね、でもくせになりますよ」

 三ヶ月前、共通の友人がひらいた映画を見てからああだこうだ言う会で、わたしは吉田さんと知り合った。広告系、という何度聞いても何を指すのかわからない仕事をしている吉田さんと、駆け出しの映画監督であるわたしは、とくべつ話が合うわけではなかったけれど、「あのシーンがああでこうで、こうすばらしいと思うけれど、それならば、あのシーンは一体なんだったのか」という感想にも批評にも満たないわたしの戯言を、うんうんうん、と興味ぶかそうな様子で吉田さんは聞いてくれたのだった。

 めがねをかけたほうのひとが、ふたりのテーブルにウイスキーを置いた。

「あ、ほんとだ。くせになる」
「はやいですね。ひとくちめでくせになるひといませんよ」言いながら、わたしもくちをつける。ひさしぶりにのんだラフロイグは、やっぱり正露丸のにおいがした。
「ところで」と吉田さんは突然聞いた。
「あなた、わるいおんなの人ですか」
「わるいおんなの人ってなんですか」びっくりして、聞き返すと、
「僕のことを好きでもないのに、くせにさせるおんなの人のことです。……ラフロイグふうに言うと」
 そう言って、吉田さんは、ウイスキーグラスをひとさし指ではじいた。りんっ、という高い音がした。
「ラフロイグふうのせいかもしれないですけど、全然わからないです」

 首をひねりながらわたしが言うと、吉田さんは、はあ、とため息をついた。それからウイスキーをごくごくのんで、うるんだ瞳で、窓のほうを見て、ぽつりと言った。

「好きな人ができると、世界はどれほど明るくなりますか」
「なんですか」
「まぶしくて仕方がないです」
「はあ」
「あざやかで仕方がないです」
「はあ」
「気になる人が教えてくれた本は、好きな人が教えてくれた本になりました」
「そうですか」
「武田泰淳の『目まいのする散歩』って本です」
「良い本ですね」

 吉田さんはずっと窓の外を見つめて喋っている。

「僕は気づいているんです、うすうす」
「うすうす」
「というより、もう確信なんですけど」
「かくしん」
「あなたはわるいおんなの人です」

 わたしは無言で、ウイスキーをのんだ。からからと氷が鳴った。正露丸のにおいが鼻からぬける。

 三回目に吉田さんと会ったとき、昔の恋の話になった。どんな恋人がいたとか、どんな片想いがあったとか、そういう話である。

 吉田さんのひとつ前の恋は、それはそれはくるしい片想いだったのだという。振りまわされて、振りまわされて、ついに振りむいた! と思ったつぎの瞬間にはもう振りむいていない。そういう片想いだったそうだ。

 吉田さんは、そういうおんなの人のことを、わるいおんなの人と呼んでいるのだろうか。わたしは吉田さんのことをわたし自身がどう思っているのかよくわからない。わたしはわるいおんなの人だろうか。

「僕のきもちくらい気づいてますよね。それなのに、ふらり、ひらりと、ひどいです」
「すみません。吉田さんのことをくるしめたいわけじゃないんです。そんなふうになるのなら」
「その先は言わないで」
「え」
「その先は言わないで、わかるからもうわかるから言わないで」
「わかるんですか」
「会わないほうがいいって言うんでしょう」
「ほんとにわかってるんだ」
「それはいちばん嫌です。それだけは嫌です」
「でも、くるしむんですよね」
「くるしみの摩擦によって火はついて僕の世界はこんなに明るくなっているのかも」
「そうなの」
「そうかも、しれないです」
「吉田さん、あなたもしかして、くるしい恋が好きなだけじゃないですか」
「くるしい恋が好きな人間なんていません」
「くるしい恋にうっとりくることはあるでしょう」
「そんなこと、ありえません」
「だってくるしさだけの恋なんてありえないもの。くるしさのあとにはかならずあまいものがある、おしゃべりがある、真夜中がある、ウイスキーがある、指先がある……キスがある」
「キスがあるんですか」
「ありません」
「ないんじゃないですか!」
「すみません」
「なんでそんなこと言うんですか」
「つい、思いついたから」
「いい思いつきですね」
「思いついただけなので」
「いい思いつきだなあ、いいなあ」
「思いつきにうっとりこないでください。くるしさはどこへ行ったんですか」
「くるしさはいつもここに、胸の、奥の、棚の、中の、小袋に」
「どこですかそれは」
「イマジナリー小袋です」
「イマジナリー」
「あなたのことを忘れたくなったら、この小袋は海に投げます」
「イマジナリー小袋を、イマジナリー海に投げるんですか」
「いえ、海はほんものです」
「海には行くんだ」
「すぐにでも投げたほうがよければ、始発にでも乗って投げに行きます」
「そうやって、人の気持ちを試すようなことを言うのはいやです」
「試そうなんて、思ってません」
「まだ投げないでください。たとえば、わたしがそういうことを言ったら楽になるからって」
「びっくりした。言ってくれたのかと思った。だって、やっぱり僕だけがくるしいわけですし。そうじゃないですか。嫌だな、こんな話をしたいと思ったわけじゃないのに。すみません。忘れてください」
「忘れませんよ」
「手きびしいですね」

 吉田さんは頭をぽりぽり掻いた。

「恋だって、やりとりだと思うんです」わたしは言った。
「やりとり」
「一方通行にできるものじゃないと思うんです」
「いっぽうつうこう」
「だから」
「はい」
「夜空に向かって台詞をはかないで」
「夜空に向かって台詞をはいてないです」

 吉田さんは間髪を入れずに否定した。真っ向からの、否定だった。

 吉田さんは薄暗くてもわかるほどに顔を赤くして(それはウイスキーのせいかもしれないけれど)、腕を組み、むっつり黙りこんでしまった。冗談じゃないですか、とわたしが吉田さんの腹をつついても、もう笑ってくれなかった。

 一杯のみきると、お会計をして、ではさようなら、と駅の前で別れた。

 わたしは、吉田さんの夜空に向かってあまい台詞をはくようなところが、ほんとうはけっこう気に入っていた。そう気づいたのは帰りの電車に揺られているときのことだった。吉田さんのあまい言葉はいつだって、一世一代だったのだ。だから、あんなに怒ったのだなあ、と改札を通り過ぎてから二度と振り返らなかった吉田さんの背中と、待ち合わせに遅れてきたとき、すごく遠くのほうから猛スピードで走ってきたときの吉田さんの笑顔を思い出しながら、思った。

 


小原 晩(おばら・ばん)
1996年、東京生まれ。2022年、自費出版にて『ここで唐揚げ弁当を食べないでください』を刊行。独立系書店を中心に話題を呼び、青山ブックセンター本店では、2022年文芸年間ランキング1位を獲得した。その他著書に、初の商業出版作品として23年9月に『これが生活なのかしらん』を大和書房から刊行。

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