日野瑛太郎さん『フェイク・マッスル』*PickUPインタビュー*

日野瑛太郎さん『フェイク・マッスル』*PickUPインタビュー*
 こんなユニークな謎で極上のミステリーが出来るなんて! と思わせる日野瑛太郎さんの江戸川乱歩賞受賞作『フェイク・マッスル』。筋トレとドーピングをめぐる謎を描いた本作の出発点は? 4年連続で乱歩賞の最終選考に残った日野さんが、どんな人なのかも気になるところだ。
取材・文=瀧井朝世 撮影=浅野剛

 江戸川乱歩賞に4年連続で最終候補に残り、4度目の第70回で受賞を果たした日野瑛太郎さん。受賞作『フェイク・マッスル』はなんともユニークな謎を提示するミステリーだ。

人気アイドル大峰颯太が、たった3か月のトレーニング期間を経てボディビルの大会で入賞。SNSにはドーピングを疑う声があふれ、炎上する。大手出版社に勤務する新卒二年目週刊誌記者の松村健太郎は、疑惑を検証するため大峰がオープンさせたジムへ入会し、潜入取材をするよう上司から命じられる。運動とは無縁の生活を送ってきた彼は最初は戸惑うが、もともと志望していた文芸部署への異動の推薦をちらつかされ、俄然やる気になる──。

「僕も運動は嫌いだったんですが、コロナ禍になった時に筋トレを始めてみたらはまりました(笑)。それで筋トレ YouTuber の動画を見るようになったんですが、よくドーピングの話が出てくるんです。あいつは実はユーザーに違いないといったゴシップが結構あって、これはミステリーの謎としていいなと思いました」

 そこで最初は、ボディビルダーたちの内輪的な話を書いたのだという。

「でも、これでは一般の読者が読んでも面白くないだろうなと思って。それで書いたものは全部捨てて、部外者の週刊誌記者の目線から謎に迫る話に書き換えました。すでに乱歩賞の締切が迫っていて、プロットを細かく立てずにアドリブで書かなくてはならない状況だったので、よく最後にちゃんと辻褄があったな、と自分でも思っています」

日野瑛太郎さん

 ジムで大峰本人のパーソナルトレーニングを受けられるのは中級者以上に限られるため、松村はまず、ベンチプレス80キロを挙げられるよう身体を鍛え始める。ド素人が視点人物なので、その分野に詳しくない読者も彼と一緒に筋トレやドーピングについて学べて非常に分かりやすい。

「素人を主人公にしようとは思っていました。大手出版社では文芸部署志望の人が週刊誌に配属されることもあると聞いていたので、それくらいの設定がいいんじゃないかと思って。松村を小説好きにしたのは、三島由紀夫の言葉を入れたかったということもあります(笑)。やっぱり筋トレといえば三島なので」

 というように、確かに作中に〈精神の存在証明のためには、行為が要り、行為のためには肉体が要る。(後略)〉という三島の言葉が出てくる。実際、身体を鍛えていくうちに外見も内面も行動も少しずつ変わっていく松村の変化が面白い。

 ドーピングをしていると肌が荒れるといった副作用のことや、ボディビル界のありようについての情報も盛り込まれ、これもなかなか興味深い。

「筋トレ YouTuber が〝あいつは薬をやっている〟とゴシップ的な話をする時、その根拠のひとつとして肌が荒れていることを挙げるんです。もちろん、それだけでドーピングしていると断言できないんですけれど。それと、作中のボディビルの団体名は架空のものですが、日本でも大会でドーピング検査をする団体と、しない団体があるんです。なので実際は、ドーピングしている人は検査のない団体の大会に出ればいいという話なんです」

 つまり、ボディビルダーがドーピングしていたからといって、必ずしも問題があるわけではない。その犯罪とはいえない謎を、巧みに話を広げ、意外な展開のミステリーに仕立てあげた構築力に唸る。

「真相はあらかじめ考えていましたが、そこにたどり着くまでの過程がアドリブでした。自分でも〝さあ、松村頑張れ〟みたいな気持ちで、松村目線になってどうやって調べたらいいのか考えながら書き進めていきました」

生来が真面目な性格なのか、何事にも懸命な松村の姿が健気で、時に笑いを誘う。特におかしいのが尿検査を試みる過程。大峰に気づかれることなく本人の尿を採取することは可能なのか。大峰がトイレに行くタイミングを観察し、ジムの便器の構造を調べ、排水トラップに加工を施すために町工場を訪れ……。他人の尿を手に入れるために、じつに涙ぐましい努力を重ねていく。

「たまたま昔、TOTO のショールームに行ったことがあるんです。それを思い出し、改めてTOTO のサイトを見ながら、こうやればいけるんじゃないかと考えては書き、考えては書いて、なんとかゴール(採取の成功)まで行けたという感じです(笑)」

 愛想のよい男を演じてジムに通う人々に声をかけたり、なぜかピアノの練習をするはめになって頑張ったり。さらには自分でも無自覚なまま筋トレにはまっていく松村がなんともおかしい。

「読者を笑わせるつもりはなかったんですけれど、こういうキャラクターにしようという気持ちは確かにちょっとあって。結果的にユーモアミステリーっぽいものになったかもしれません」

日野瑛太郎さん

 物語は、大峰のマンションの部屋に通う竹中彩佳という女性の視点も挿入される。ライブツアーで大峰が留守にしている間に、彼女はベッドの下から注射器を見つけて動揺する。他に、大峰の経歴にはデビュー前に数年の空白期間があること、彼のジムは過去にオーナーチェンジがあったことなど、「なにかありそう」と思わせる事実が随所で浮上して謎を重ねていく。さらには松村の前に、怪しげな男たちが現れて……。

「視点人物をもう一人入れたのは、謎を追う人物が松村だけだと弱いと思ったからです。それと、すんなり真相にたどり着くのではなく、なにかしら伏線を張らないとまずいなとも思いました」

 謎が絡まり合って緊迫感が徐々に高まり、やがて事態は思わぬ方向へ。そこからの着地の仕方もじつに痛快だ。

 もともと本が好きで、ジャンル問わず幅広く読んできたという。

「小学3年生くらいの頃にはうっすらと小説家になりたいと思っていました。ただ、その頃はミステリー作家になりたいとまでは意識していませんでした」

 東京大学大学院工学系研究科修士課程を修了後は就職したというが、その後、『脱社畜の働き方』など、実用書を多く刊行している。

「修士1年生の時に自分で会社を始めたんですが1年くらいでぽしゃってしまって。その後、企業に就職して2年くらい働きましたが、残業がエンドレスで、これはおかしいんじゃないのかと思って。その愚痴みたいなものをブログなどに書いていたらそれが本になり、何冊か関連書を出しました。でも自分ではずっと、フィクションを書きたいなと思っていて。これはもう、正しい門から入ってデビューしたほうがいいなと思いました」

 江戸川乱歩賞に応募しようと思ったのは10年ほど前。

「大沢在昌さんの『小説講座 売れる作家の全技術 デビューだけで満足してはいけない』に、これからの出版業界は厳しいから、できるだけ偏差値の高い新人賞を獲らないといけない、ミステリー系なら乱歩賞だ、と書いてあったんです」

 はじめの5年間は実作せずに過去の受賞作やミステリーランキングに入った有名な作品を読んで勉強した。

「大沢さんの本に、ミステリーの賞に応募するなら1000冊くらいは読まないと、と書いてあったんです。それでやってみようと思い、読書メーターで記録をつけていったんですけれど、見返したら10年の間に2000冊ほど読んでいました。ノンフィクションも入っていますが、小説が7~8割だと思います。実際に書き始めたのは5年ほど前。最初は2次で落ちましたが、その後は毎年、最終選考まで残りました」

 ところで、日野さんは、昨年『ファラオの密室』で『このミステリーがすごい!』大賞の大賞を受賞した白川尚史さんとは旧知の仲なのだとか。

「大学の後輩なんです。学科が同じで、僕が昔会社をやっていた時にインターンで来てもらったのが出会いでした。その後紆余曲折あって、今度は彼が起業した時に、彼の会社で僕が働いていた時期があって。その頃に小説や映画の話をたくさんしました」

 そういえば、以前この連載で白川さんにインタビューした際、職場が同じだった大学の先輩に薦められて『東西ミステリーベスト100』に掲載された作品を一通り読んだ、と語ってくれていたが……。

「その先輩が僕です。彼と競争して、僕も掲載作品を全部読みました。僕のほうが何度も最終選考に残っていたのではやくデビューするだろうと思っていたら、彼に先を越されました(笑)」

日野瑛太郎さん

 日野さんはこれまでの応募作で、どのようなミステリーを書いていたのか。

「乱歩賞ではじめて最終に残ったのがアイドルの誘拐ミステリー。翌年は近未来SFの誘拐もので、次の年は YouTuber の事務所で立てこもり事件が起きる話でした。その過去3回では劇場型犯罪にこだわって書いていたので、それで今回ちょっと違う感じのものにしようと思ったんです」

 今回の受賞作を含め、過去の応募作では人が1人も殺されていないという。

「今後書くものも人が殺されないとは断言しませんが、ただ、安易に殺すのはまずいと思っています。真相が分かった時に、別に殺す必要なかったんじゃないかと感じる話も結構多い気がして。そういう話を否定はしませんが、僕はやめておこうと思っています。以前、東野圭吾さんが選評で〝人を殺さなくても面白いものは書けると知ってほしい〟と書かれていて、それを意識していました。今回、東野圭吾さんが選考委員になられたので〝あなたがおっしゃっていたことをやったつもりです〟という気持ちでした」

 では今後は、どのような作品を書いていきたいのか。

「広義のミステリーやサスペンスになるのかなと思っています。僕はパズラーのような本格ミステリーよりは、そのシチュエーションで人間がどうしていくか、みたいな話に興味があるんです。今後パズラーは絶対書かないとは言いませんし、もちろん必要があれば殺人も書くと思います。ただ、殺人事件の謎を解いてもその人は生き返らないですよね。まあ白川さんの『ファラオの密室』は死んだ人が生き返ってますけれど(笑)。起きてしまった過去の事件の謎を解く話よりも、誘拐や立てこもりといった、今起きていることを解決するために頑張らないといけないという話のほうが、僕自身も読者としてどんどんページをめくりたくなるし、自分でも書きたいと思っています」

 好きな作家を聞くと、レジェンド級だと思っている作家として奥田英朗さんの名前が挙がった。

「奥田英朗さんのように幅広い作風を持っていて、どの作品も全部ちゃんと面白いという小説家になるのが目標です。最終的に名前で買ってもらえるようになりたいですね。今回書いたのは結構ユーモアの強いミステリーでしたが、もっとシリアスなものも書いてみたい」

 奥田英朗作品のなかで好きなものを聞くと「ほぼほぼ全部」と言いつつ、『サウスバウンド』と『空中ブランコ』を挙げてくれた。

「僕は、小説は構造よりもディテールだと思っています。奥田さんの作品のように文章を追っているだけで面白い、というのが自分にとっての小説の理想形なので、僕もディテールを大事にしていきたいです」

フェイク・マッスル

『フェイク・マッスル』
日野瑛太郎=著
講談社

日野瑛太郎(ひの・えいたろう)
1985年茨城県生まれ。東京大学大学院工学系研究科修士課程修了。第67回、第68回、第69回江戸川乱歩賞最終候補を経て「フェイク・マッスル」で第70回江戸川乱歩賞を受賞し、デビュー。


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