採れたて本!【デビュー#22】
ここ数年、日本は空前の筋トレブーム。うちの近所にもフィットネスジムが次から次へと開店し、どこもそれなりににぎわっている。裾野が広がれば頂点を目指す人口も増えるのか、ボディビル・コンテストの参加者数も右肩上がりだという。YouTube には筋トレ動画があふれているし、テレビでも筋肉自慢のお笑い芸人や俳優を見かけない日がないくらいだ。
この筋肉ブームに着目したのが、今年の江戸川乱歩賞(第70回)を受賞した日野瑛太郎の『フェイク・マッスル』(霜月流『遊郭島心中譚』と同時受賞)。
小説の焦点は、人気男性アイドルグループ AEGIS のメンバー、大峰颯太に降りかかったドーピング疑惑。アイドル活動のかたわらボディビルディングに励んだ大峰は、3カ月間の特訓を経て、ボディビルダーの大会『ベスト・マッスル・フェスティバル202X』に初出場し、3位の好成績を収めた。ところが、コンテスト時のムキムキ写真が公開されたとたん、専門家から疑問の声が上がる。いわく、わずか3カ月のトレーニングと食事だけでここまで筋肉がつくことはありえない。これはアナボリック・ステロイド(筋肉増強剤)を使ったに違いない……。
大峰が出場した大会にはドーピング検査がない。ステロイド剤の使用がルールで明確に禁止されているわけでもないし、もちろん法律にも違反しない。ボディビル業界においてステロイド使用はグレーゾーンということらしい。しかし、大峰はドーピングをきっぱり否定。どちらの主張も、それを裏付ける決定的な証拠はなく、騒動は落ち着いたかに見えたが……。
この疑惑を調査するよう命じられたのが、『週刊鶏鳴』編集部で〝使えない記者〟のレッテルを貼られかけている若手社員・松村健太郎。文芸編集者を志望して難関を突破し、憧れの文芸出版社・鶏鳴書房に新卒で入社したというのに、配属されたのはまさかの週刊誌。小説以外の知識がほとんどなく、世間知らずの松村はやることなすこと失敗続き。入社してまだ2年足らずだが、このままでは窓際に飛ばされてしまうかも……。
その〝使えない記者〟の使い道として降って湧いたように浮上した仕事は潜入取材。具体的には、大峰颯太がオープンするトレーニングジムの会員となり、ジムに通って情報を集め、あわよくば大峰に近づいて、ドーピング疑惑の真偽を見極めること。もし万一(というかかなりの確率で)有力な証拠が得られなかった場合も、「ヒョロヒョロの素人記者が3カ月のあいだ大峰のジムに通ったらこうなった」みたいな体験記で紙面を埋められる──というのが上層部の皮算用。『週刊ポスト』や『週刊文春』なら、現実にあってもおかしくない企画かもしれない。
しかし、会員になったとたん、松村は大きな壁にぶつかる。大峰自身からパーソナルトレーニングを受けられるのは中級者以上の会員。すなわち、ベンチプレスで80キログラムを挙げる筋力が求められる。かくして、過酷な筋トレの日々がはじまった……。
乱歩賞受賞作におなじみの、いわゆる〝特殊業界もの〟の面白さが小説全体を牽引しているのはまちがいないが、主人公の〝俺〟こと松村健太郎の愛嬌ととぼけた語り口が独特の味わいで、そこはかとなくユーモアが漂う。ドーピング検査にまわすためになんとか大峰の尿を採取すべく、大峰がジムで使う小便器に仕掛ける採尿器具を考案・開発するまでの涙ぐましい努力とか、ピアノの特訓(!)とか、往年のスパイ大作戦(の小型版)的なスリルとサスペンスもある。
ドーピング問題を扱いながら殺伐とした話にならないところがこの小説の長所であり同時に短所かもしれない。
著者の日野瑛太郎は1985年生まれ。東京大学大学院工学系研究科修士課程修了。4年連続で江戸川乱歩賞最終候補に残り、今回、4度目の正直で受賞の栄冠を勝ちとった。即戦力として活躍できそうな新人だ。
『フェイク・マッスル』
日野瑛太郎
講談社
評者=大森 望