◎編集者コラム◎ 『武漢コンフィデンシャル』手嶋龍一

◎編集者コラム◎

『武漢コンフィデンシャル』手嶋龍一


『武漢コンフィデンシャル』写真

 3月6日に発売した手嶋龍一さんの文庫『武漢コンフィデンシャル』は、ベストセラー『ウルトラ・ダラー』につらなるインテリジェンス小説です。

 トランプ再登板で改めてウイルスの起源が取り沙汰されるなか、米中の最高機密を著者にしかできない方法で「物語」に落としこんでいます。

 解説は、コロナ禍3年間のドキュメント『奔流 コロナ「専門家」はなぜ消されたのか』の著書であるノンフィクション作家・広野真嗣さん。本書の「読み解き方」を伝授する解説を無料公開します。

『武漢コンフィデンシャル』を読み解く──疫禍の「エピソード・ゼロ」

広野真嗣


 インテリジェンス小説『武漢コンフィデンシャル』は、世界で六百九十万人の死者を出したパンデミックの震源地・武漢を舞台に、米中の二大国それぞれがいかに二〇一九年十二月の感染爆発前夜を迎えたかをめぐる物語だ。新型コロナウイルスの起源を解き明かす、いわば疫禍の「エピソード・ゼロ」である。

 長江中流の武漢は、辛亥革命の地、国共内戦の要衝でもある。十歳でこの地に流れついた李志傑は、己の才覚で紅幇の頭目にのしあがったが、のちに文革の嵐に翻弄され家族と生き別れた。それから五十年の時を経て志傑の血を引く麗人が、イギリスの秘密情報部員ブラッドレーと、アメリカの情報機関を渡り歩いた情報士官マイケルをある壮大な企てに巻き込んでいく。

 そんな物語が幕を下ろした後、現実の武漢で何が起きたかを私たちは知っている。

 コロナ肺炎の感染爆発が起き、やがて世界に広がった。患者が集中した海鮮市場の近くに、コロナウイルスを研究する武漢病毒ウイルス研究所があった(本稿では以下、英語名の略称WIVと記す)。この一致は偶然か、必然か。何が起きたのか。著者の読み解きはこの物語を通じて示されているが、日本政府に助言したコロナ専門家たちの動きを取材してきた私は、途中からページをめくる手が止まらなくなった。当時から、ずっと見えなかった米中両大国の動きの「死角」が浮かび上がってきたからだ。

 パンデミックは政治体制のもろさをさまざまに明るみに出した。習近平の中国の場合、確かに都市封鎖で最初は感染を抑え込んだが、最後はゼロコロナへの抗議を恐れて政策を解除した。多くの人命が失われる事態には動じないが、暴動には恐々となる。

 独裁者とはそんなものなのかもしれないが、中国はアメリカに匹敵する死者(百万人)が出ていたとしても不思議はないのも確かだ。粉飾ではない本当の死者数が公開でもされたら、中国の国民の怒りは広がるだろうか……。インテリジェンスのプロが考える権力中枢の迷宮は重層的で、そんな素人の想像のはるか先を余すところなく描き切っていたのである。

 この文章を書き始めた二〇二四年十二月、アメリカの下院小委員会が「WIVでの事故がパンデミックを引き起こした」と結論づける最終報告書を公表したというニュースが飛び込んできた。トランプ次期大統領を支持する共和党が主導しているから、トランプ流の決めつけかと思いきや、実は、そう簡単には片付けられない。

 米国でうねるように変転した起源をめぐる論争がどのように展開したか。日本ではほとんど報じられていない「ふつうの情報」を振り返っておきたい。それが、後述するように本作の見立ての正確さとオリジナリティを浮き立たせることにも結びつくと考えるからだ。

 コロナの起源をめぐる考え方は二つある。一つはウイルスが動物から人間へと自然と広がったと見る「自然発生説」。もう一つは、WIVからウイルスが流出したと考える「研究所流出説」だ。後者には、そもそもウイルスは人為的に設計されたのではないかとの疑念が含まれている。

 アメリカの科学界は研究所流出説を人種差別的な陰謀論と一蹴してきた。二〇年二月、医学雑誌「ランセット」で二十七人の著名な学者が「陰謀論を強く非難する」という声明を発表した。ホワイトハウスで対策に助言していたアンソニー・ファウチ国立アレルギー・感染症研究所長も会見で流出の可能性を問われ、「動物から人間への種の飛躍と完全に一致している」と述べて自然発生説に立った。ニューヨークタイムズやCNNといった左派リベラル派のメディアも自然発生説に傾いていた。

 これに対して、何らかのインテリジェンス報告を見たのか、「証拠を見た」と研究所流出説の側に立ったのがトランプだった。コロナの失政から目を逸らすための発言だと受け止められる一方、巻き添えを敬遠した科学界は沈黙した。日本では次第に忘れ去られていったのに対し、アメリカでは国民の関心事であり続けた。これにはコロナに限らず、「真実」をめぐって左右の政治やメディアがまじわっていかない現代アメリカ事情にも根ざしているが、ここでは立ち入らない。

 潮目が変わったのは二〇二一年五月二十六日だ。バイデン大統領は研究所からの流出の可能性にふれつつ情報機関に追加調査を指示したと明かした。ふだんは明かさない情報機関への指示をあえて公表したのは、この論争で自然流出説の旗色が次第に悪くなってきたからだ。

 というのもその少し前の三月三十日、世界保健機関(WHO)が中国と共同で作成した現地調査の報告書は「(流出の)可能性は低い」と結論づけていた。その根拠は充分とはいえず、三百十三ページの報告書のなかで四ページを割いただけだった。たまらずイェール大学の免疫学者、岩崎明子教授ら著名な学者らが五月に入って沈黙を破り、「十分なデータが得られるまでは両説を真剣に検討しなければならない」という趣旨の声明を発した。

 さらに経済紙ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)が、「WIVの研究員三人が(最初の感染例より前の)一九年十一月に体調を崩し、病院での治療を求めていた」という、流出説を間接的に裏付けるスクープ記事を出した影響も無視できない。

 兆候はもう少し前からあった。WSJはスクープの半月前の五月初旬、手がかりをきちんと分析しないマスコミを酷評していたニューヨークタイムズの元科学記者、ニコラス・ウェイド氏の専門誌への寄稿論文を正面から取り上げる記事を出していた。

 当の論文でウェイド氏は、「研究所流出説のほうが起きている事実を説明できる」と主張していた。

 根拠の一つは、WIVは遺伝子を操作し、ウイルスの毒性や感染力を強める「機能獲得実験」という手法で研究を行っていた記録があるとの指摘だ。機能獲得実験というのはワクチン開発に生かす試みだが、リスクも伴う。免疫を持たない研究者が安全でない環境で作業すれば、ウイルスに感染して漏出の原因にもつながる。いま一つの根拠は、ウイルスに残された手がかりだ。新型コロナは人間によく適応していた。それは祖先と見られるコウモリのコロナウイルス群にはない「フーリン切断部位」という、増強点があったことと関係がある。

 ウイルス表面の王冠の棘(スパイク)のようなかたちをしたタンパク質の、さらに特定の箇所に新型コロナに特異的な部位があり、人間の細胞に侵入する際、その特異的な部位の働きによって爆発的な感染力が生まれたとされている。そのフーリン切断部位が、コウモリのコロナウイルスにはなくて、新型コロナにはある。あらかじめそんな機能を獲得していたのはなぜか。それこそ人為的な操作が加えられていたからだと考えれば簡単にその疑問を説明できる、というのだ。

 ウェイド氏は論文で、流出の可能性を探究し、自身が刺激を受けた研究者らに賛辞を送ったが、その中で埋もれた記録や資料の掘り起こしにあたったネットギーク(オタク)のグループの名前も挙げている。

「DRASTIC(新型コロナに関する分散型の先鋭匿名チーム)」と自称したこの集団は、公的記録や論文を様々なデータベースの底の底から発見しては、SNS上でオープンに共有し、さまざまな仮説を提示していた。トランプの主張に引きずられた動きではなく、健全な疑問や純粋な好奇心が動機だった。彼らがWIVの矛盾を的確に突いたことで、マスコミや政府を動かした事実は見逃せない。

 そして報道は加速した。ネットメディア「インターセプト」は、米国立衛生研究所から受けた資金をもとにWIVが機能獲得研究を行っていたという、疑われてきた見立てを新資料から裏付けた。ニューヨークに本部を置く非営利組織「エコヘルス・アライアンス」を経由することで、二〇一四年から五年間で約六十万ドルがWIVに流れていた。キーマンはこの組織代表の動物学者・ピーター・ダザック氏だ。ダザック氏と、武漢のコロナウイルス研究のリーダーで〝バットウーマン〟の異名を持つ石正麗研究員とは、長年の研究仲間である。

 そんなろんな送金ルートがなぜできたかといえば、流出リスクを懸念したオバマ政権が一四年、機能獲得研究への資金提供を凍結したことに端を発する。研究を続けるためにしかたなく捻り出されたのが、国外で唯一、高度な研究を行っていたWIVとの提携であり、そこにエコヘルスも登場することになる。

 このあたりは本作『武漢コンフィデンシャル』の読みどころと重なるのであえて詳しく述べないが、石氏とダザック氏のコンビには、その後、さらに衝撃的な事実も判明した。DRASTICは二一年九月二十日、ダザック氏がコロナ禍前の一八年三月、国防総省の国防高等研究計画局(DARPA)に出した助成金申請書を掘り起こしている。これを材料にインターセプトが報じたのは、石氏らも参加して、新型コロナによく似たウイルスを作成する研究計画を国防総省に申請していた事実だ。すなわち、フーリン切断部位を持つウイルスの探索と作成を提案する実験を準備していたことが示唆されていたのである。

 申請は却下されたし、ウイルスの機能獲得が完成した証拠はない。しかし、新型コロナのようなウイルスを作ろうとしていたのは確かだ。パンデミックは米中合作の帰結だった可能性が現実味を帯び、二三年にはアメリカ人の三人に二人が研究所流出説を支持するようになった。その後の曲折を経て、米政府は二四年五月、エコヘルスへの全ての補助金を取りやめ、研究所としての資格を剥奪している。

 科学界は静かに成果を探っている。二〇二四年八月の「ネイチャー・マイクロバイオロジー」にイェール大学の岩崎氏らの研究が掲載されている。新型コロナと九七%の遺伝的同一性を持つ二種類のコウモリコロナウイルスを人間の細胞などに感染させる実験である。論文によれば、新型コロナに比べ、二種のコウモリのウイルスは感染こそするものの免疫の働きでウイルス量が減ったり、病状が進まないことが確認された。フーリン切断部位の有無にこの結果が起因するならば、WIVでこの部位が挿入されたという見方と、やはり矛盾しないということになる。

 政界は騒々しい。本作の中で、〝フォート・デトリックのヨーダ〟なる老学者(後述)がマイケルに「ファウチ博士の一挙手一投足から瞬時も目を離しちゃならん」と諭す場面があるが、コロナ禍を過ぎ越した時点で、実際に「歴史の法廷」に引っ張り出されているのは、まさにそのファウチである。

 ファウチ氏は二二年末で公職を退いたが、追及は続いた。二四年六月には下院の委員会で三時間半も吊るし上げられた。傍聴希望者の列には「ファウチを刑務所に」と大きく書かれたTシャツを身につけた者もいた。ファウチはその後もシークレットサービスの警護を外せなくなる。二五年一月二十日の政権移行間際、バイデン大統領は「不当な政治的動機に基づく訴追」を懸念して異例の「予防的な恩赦」をファウチ氏に与えた。するとこんどは、新大統領のトランプ氏がファウチ氏の公費による身辺警護を解除した。新旧の大統領に貢献したはずの科学者に、それぞれから〝恩赦〟と〝攻撃始め〟の犬笛のような指示が放たれる、異様な展開を辿っている。

『武漢コンフィデンシャル』の単行本が発表されたのは二二年八月のことだ。すなわち、DRASTICが決定的な助成金申請書を掘り起こした二一年九月の段階では、本書の執筆はすでに本格化していたはずだ。逆算して遡れば、構想・創作時は、未曽有の危機下で新聞・テレビや雑誌に加えてSNSからおびただしい量の情報が氾濫した時期にあたり、研究所流出説がここまで有力視される状況にはなかった。とはいえメディアの表層に流れていた情報だけで研究所説に踏み込んでいったとは考えづらい。ここまで振り返った両説をめぐる力学の変化をみるだけでも、ウイルスの起源をめぐる見方や情報が、せめぎ合いながら明るみに出てきたことは理解できるはずだ。

 そう考えると、本作の執筆はリアルタイムの報道はもちろん、その後に確定ないしは有力になる視座を先取りするインテリジェンスの力がなければ成立しえない仕事なのだと判ってくるのだ。

 こうなると、あらためて著者の情報源はどこにあるのか、そんな推論にも誘われる。前出の〝フォート・デトリックのヨーダ〟は一つのヒントかもしれない。フォート・デトリック基地とは、メリーランド州に戦前からある、米陸軍のウイルス・細菌戦の研究拠点のことで、米陸軍感染症医学研究所(USAMRIID)のほか、国土安全保障省、農務省、厚生省が拠点を置いている。NHKワシントン支局長を務めた著者は在任中に九・一一に遭遇した。その直後に郵便物と一緒に複数の場所にウイルスが送られた「炭疽菌テロ」が起こり、著者自身がフォート・デリックを取材することになったらしい。〝ヨーダ〟と重なる人物と実際に知遇を得ていてもおかしくはない。

 アメリカの感染症対応の歴史を知り尽くした〝ヨーダ〟は、例えば二〇世紀のニクソン政権が「生物・化学兵器の開発から手を引く」と決めた決定と、二一世紀のオバマ政権が「機能獲得研究を凍結する」と決めた方針決定とを重ね合わせ、それぞれが見逃せない過ちを犯した可能性を示唆する。この〝ヨーダ〟の独特の視点はじつにクリアだから、本作の背骨に、このヨーダのような、歴史観と専門性を兼ね備えたフィルターから歴代政権を断じうる特権的な知性(情報源)の存在をうかがわせる。著者の連作ではお馴染みの情報士官、マイケルを敢えてウイルス戦にまつわる情報機関に配して〝ヨーダ〟の聞き役としたのは、著者自身が情報源と交わした対話がそこに再現されているのかもしれない。

 ヨーダと聞いて『スター・ウォーズ』のジェダイの親玉のことをイメージする読者もいるはずだ。それはそれで間違いないアナロジーだが、むしろここでは、ニクソンからオバマまで八代にわたって米政権の外交・安全保障戦略を支え、「ペンタゴンのヨーダ」と呼ばれた知る人ぞ知る米高官、アンドリュー・マーシャルに匹敵するような、権力の深奥に連なる人物がいるのだ、と示唆していると読むべきなのだろうか。

 確かに、NHKでワシントン支局長を務めたジャーナリストが相応の情報源を持っていてなんら不思議はない。ただし、そうはいっても、医療の専門家ではない著者が、いかにしてパンデミックの近未来を照らし得たのか。そこで重みを持つのが、著者の武器であるインテリジェンスである。

 シリーズ前作の『鳴かずのカッコウ』に、公安調査庁のベテラン調査官の柏倉頼之が、インテリジェンスの要諦を語る場面がある。競馬新聞を材料に新人に説く柏倉の言葉に、著者の考えが示されている。

「ええか、この競馬新聞いうヤツには、じつに膨大なデータが詰め込まれとる。血統、追い切りのタイム、馬場状態、馬体重の推移、負担重量、手綱をとったジョッキー、きゅうしゃ関係者のコメント。だが、それらはみな一般情報にすぎん。君らの教科書にあるインフォメーションというやつや。つまりちりあくたの類いにすぎん。けどな、塵芥のなかにも、近未来を予見するヒント、言うてみれば、ダイヤモンドの原石が埋もれとるかもしれん。それを見つければ話はべつや。あすの勝ち馬を言い当てる拠り所になる、ちょうたくし抜かれた情報、ええな、その珠玉のような一滴こそがインテリジェンスやぞ」

 繰り返すが、パンデミック下で大量の情報に接しながら、「珠玉のような一滴」を集めることは容易ではない。しかも、米中対立に絡む、機微情報だ。

 公開情報はもちろん、怪情報や的外れな分析を排除するため、複数をつきあわせてはガセネタを取り除き、あるいは当事者の不文律といった補助線をあてがう。そして最後は秘密情報を持った情報源に当てて確かめる。地道な作業を重層的に重ねることでしか、立体的な近未来は立ち現れてはこない。しかも著者が、その作業をなしうる特殊な情報の交差点に立っていることが大前提となる。

 機微にふれるインテリジェンスを発表する以上、ネタ元は秘匿しなければならない。だからこそ物語に溶け込ませる形を取るものの、スパイや医務官僚を登場させて架空の現実を描いたフィクションとは全く異なるのが著者の作品群だ。公開情報と秘密情報をもとに分析を尽くした末に見出せる地平を描く、日本ではほかにほとんど例のない試みなのである。

 奇しくも文庫版刊行は、第二期のトランプ政権スタートと重なった。トランプはWHO脱退の大統領令に署名したかと思えば、拠出金を引きさげるなら「再加入を検討する」と揺さぶりをかけた。疫禍がまた来れば、二大国が協力することはコロナ禍より難しくなるだろう。中国とアメリカ、あるいは政治と科学の緊張をこれからどう理解していくべきか、本書は洗練された判断材料を提供してくれる一冊となるはずだ。


(ひろの・しんじ/ノンフィクション作家)

──『武漢コンフィデンシャル』担当者より

武漢コンフィデンシャル
『武漢コンフィデンシャル』
手嶋龍一
萩原ゆか「よう、サボロー」第92回
TOPへ戻る