著者の窓 第47回 ◈ 桜井美奈『盗んで食べて吐いても』

多くのアスリートが苦しむ摂食障害をテーマに
──7月9日刊行の『盗んで食べて吐いても』は、中学生の頃から体型にコンプレックスを抱き、摂食障害に苦しめられている主婦・小笠原早織が主人公。摂食障害という題材を扱おうと思われたのは、どうしてなのでしょうか。
明確には覚えていないのですが、次に何をやりましょうかと担当編集の方と打ち合わせをした時に、確かわたしから摂食障害を書いてみたいという提案をしたんですね。摂食障害についてはネットニュースなどで記事を目にしていましたし、摂食障害と窃盗症に苦しんでいたマラソン選手の方の番組もテレビで見ていて、気になっていたんです。そういえば、当初はスケートものを書こうとしていたんですよ。
──スケートと摂食障害の関係ですか。
そうですね。わたしはフィギュアスケートがすごく好きで、どの編集者さんにもスケートものを書かせてくださいという話をするんです(笑)。元オリンピック選手の鈴木明子さんも摂食障害に悩んでいたということもあり、もともと好きなスケートと以前から関心があった摂食障害を合わせて書いてみたいという考えが浮かびました。ただスケートが好きすぎるせいか、ふたつをうまく繋げることができなくて、それでスケート要素は思い切って省くことにしました。

──早織は家族に隠れて大量に食べて吐くをくり返し、食料品を手に入れるためスーパーで万引きをするようになります。摂食障害だけでなく、窃盗症まで描こうと思ったのはなぜですか。
当初考えていたスケートという要素がなくなりましたし、摂食障害だけで長編を一本書くのはわたしには難しい気がしたんです。どこに向かって物語を書いていけばいいのか、摂食障害だけでは見えてこなかった。それでマラソン選手の方の実例もありますし、“窃盗症”という問題まで含めることにしました。まだあまり書かれていない題材ですし、多くの人に興味を持ってもらえるんじゃないかと思ったんです。
主人公・早織の気持ちは作者にも分からない
──早織はやってはいけないと思いながらも、過食と嘔吐、万引きを続けます。自分で自分がコントロールできない、そんな心理がとてもリアルに描かれていて、圧巻でした。
早織がどんな気持ちで過食や万引きをくり返すのか、わたしには早織のような経験がありませんし、身近にも窃盗症で苦しんだという人はいないので、正直今でも分かりません。分かると言ってしまったら、逆に嘘をつくことになる。アルコールや薬物への依存ならばまだイメージしやすいですが、窃盗症となると遠い世界です。その気持ちは資料を参考にしながら、想像して書いていくしかありませんでした。
──早織は会社員の夫・大樹、中学生の娘・佑実との3人暮らし。平凡でも幸せな暮らしを送っている彼女ですが、心の底には母親との関係がもとで生まれたコンプレックスが存在しています。早織はどのような人物として書いていきましたか。
生真面目で、自分を罰してしまうタイプです。この作品を書いていて不安だったのは、読者に早織の存在が受け入れられるだろうかということでした。昨今はルールを破った人への目が厳しく、激しいバッシングに晒されることも多い。万引きを日常的にくり返している早織も、拒絶されてしまうかもしれない。それで「ひどい目に遭って当然でしょ」と読者に感じさせないような、思い詰めるタイプの主人公に設定しました。そこまで理屈で考えて書いているわけではないですし、結果的には作品になったものがすべてですが、言葉にするとそんな感じです。
──モデルのような体型をキープしていた早織の母親は、小学生時代の早織にもダイエットを強い、そのストレスが摂食障害の引き金になってしまいます。母子関係もこの物語のテーマでしょうか。
テーマというほど意識して書いたわけではなく、これも書いているうちにそうなりました。資料を読むと摂食障害の原因には、スポーツもあれば、早織のような母親との関係もある。それにしても早織以上に、あのお母さんは分からない存在でした。どういう人なんだろうという興味は抱きましたが、最後まで理解できないタイプでしたね。
──やがて早織は万引きで逮捕され、夫の大樹にもそのことを知られてしまいます。ショックを受け、怒りを隠さない大樹。彼はどんな人物として描いていますか。
読んだままですけど、できるだけいい人にしよう、裏切ったら申し訳なくなるような人にしようと思っていました。会社にもきちんと行って、子育てにも協力的で、多少の波風はあったにしても夫婦仲は良好。そんな大樹でも窃盗症は理解ができないし、万引きがくり返されることで早織を支えきれなくなる。もっとあっさり妻を切り捨てるような人間として書いてもよかったのかもしれませんが、結果的にはいい夫になりました。
──中学生の娘・佑実は早織が逮捕された瞬間を友人に見られ、以来、母親を拒絶するようになります。大樹や佑実との関係がどう変化していくのかが、本書のひとつの読みどころです。
偶然にも早織はわたしと同世代、佑実はわたしの娘と同世代なんです。だからあの微妙な距離感は理解できる。佑実は当たり前ですけど、母親を思いやるより自分のことが大切ですよね。反抗期で多感な時期に、母親が逮捕される瞬間を友達に見られたら気まずいだろうし、学校でも辛い目に遭ったかもしれない。それで関係が冷え切ったまま長い年月が経ってしまう。2人の関係を最後までそのままにするのか、どこかで和解させるのかは、書いていて迷ったところでした。
結末がどうなるのか、書いてみるまで見えなかった
──逮捕されて深く後悔していても、また同じようなことをしてしまう。そんな早織の人生を書いていて、どんなことをお感じになりましたか。
やっぱり分からないです。発症の仕組みについては資料や文献で学びましたが、その感情の部分については共感が難しかったです。実は自分も食べなければ早織の気持ちが分かるかもしれないと考えて、一瞬、試してみたらどうなるだろう、と思ったことがありました。早織に引きずられていたんでしょうね。もともとあまり食べる方ではないんですけど、一時期食欲がほんとうになくなって、これはまずいなと。それからは意識して、早織と距離を保つようにしました。もしかしたら自分も早織のようになるかもしれないし、誰にでも可能性のある話なのかもしれません。

──執行猶予期間中に逮捕され、早織は刑務所に入ることになる。ここまでが第2章です。摂食障害で人生がこんなに変わってしまうのか、と読んでいて衝撃でした。
資料を読んでいても、万引きで実刑判決を受けている人はたくさんいるんです。物語の構成上も、一度刑務所に入ることで、そこからの再出発を描くことができると思いましたし。
──出所後、ドラッグストアで働き始めた早織は、万引きの欲求に苦しめられながらも、仕事を続けていきます。年下の店長や元ギャルの同僚との交流を交えながら、早織の更生を描いていくのが第3章です。
あそこは書いていて楽しい部分でした。第2章までがとにかく重くて、辛かったので、後半は雰囲気を変えようと。店長や元ギャルの浜野は、わたしも割と気に入っています。真面目な人、物事を深刻に受け止める人だと、早織の過去を知って関係を続けることはできないかもしれない。いい意味で深く考えない、2人のようなキャラクターが早織のためになるのかなと思いました。
──やがて早織は自分と同じ病気に苦しむ高校生・麻里乃と知り合う。世代を超えた2人の関係が、物語後半の軸になっています。
同じ摂食障害に悩んでいる麻里乃と、あんな風に出会うというのは、さすがにフィクションだな、という感じなんですが、第2章までの出口のない状態をなんとか変えるには、店長や浜野だけではやや決め手に欠けると思ったんですね。その意味では、早織の変化のために出てきたキャラクターではあるんですけど、過去の自分を見ているような麻里乃を救うことで、早織も変わっていきます。
──デリケートな題材を扱っていますし、書かれるうえでいろいろご苦労があったと思いますが、特に大変だった点はどこでしょうか。
やっぱり早織の気持ちが最後まで理解できなくて、「これでいいのかな」と自問自答しながら書き進めていくのが大変でした。それと悩んだのは結末ですね。いつもはプロットを最後まで決めてから書き始めるんですが、早織にどんな未来が待っているのかなかなか見えてこなくて。書いていたら見えてくるだろうと信じて、書き進めていきました。最終的には今ある形に落ち着いたのですが、あれで良かったのだと思います。
人間の多面性を描いていきたい
──7月からWOWOWで『殺した夫が帰ってきました』のドラマが放送・配信されます。『殺した夫が~』のようなミステリー系を書く場合と、今回のような人間ドラマ主体の作品を書く場合では、気持ちのうえで違いはありますか。
ないですね。『殺した夫が~』ももともとミステリーを書いたつもりはなくて、出版社がつけた「サスペンスミステリー」という宣伝文句を見て、「わたしって、サスペンスミステリーを書いてたんだ」と初めて気づいたくらいなんです。あの作品は別人と家族になることができるか、というテーマが出発点で、それをストーリーに落とし込んだらああいう形になった。最近は『殺した夫が~』がヒットしたお陰で、はっきりとミステリーの執筆を依頼されることも増えましたが、書きたいものはトリックやどんでん返しではないので、今回のような人間ドラマ系の作品と意識のうえでの違いはないですね。
──『盗んで食べて吐いても』の「書きたいもの」とは。
これは今回の作品に限ったことではなく、人間って一面だけでは分からない、多面的な存在だっていうことですね。真面目な人だって罪を犯すことがあるし、悪そうに見える人が真面目に悩んでいることもある。表面から見えているところ以外を、小説として書けたらというのはいつも考えていることです。
──なるほど、ところで今回の作品はタイトルにインパクトがありますね。
担当さんと相談してもなかなか決まらなくて、実はAIにも考えてもらったんです(笑)。何十個と出してもらった中に、このタイトルの原型があって。ストレートに物語の内容が伝わるし、目を惹くタイトルになるんじゃないかと。多少変えてはいますが、最初の案を出したのはAIなんです。

──摂食障害や窃盗症が身近でない読者にとっても、色々と考えさせられる作品でした。本書を手にする読者に一言お願いします。
この本を読んでどう感じるかは、わたしが決めることではないので。読んだ方それぞれで解釈してもらえたらと思います。そして色々なことを考えるきっかけにしていただけると嬉しいです。
桜井美奈(さくらい・みな)
2013年、第19回電撃小説大賞で大賞を受賞した『きじかくしの庭』でデビュー。主な著書に『嘘が見える僕は、素直な君に恋をした』『塀の中の美容室』『殺した夫が帰ってきました』『相続人はいっしょに暮らしてください』『私、死体と結婚します』『眼鏡屋 視鮮堂 優しい目の君に』『復讐の準備が整いました』などがある。
