▽▷△超短編!大どんでん返しExcellent▼▶︎▲ 櫻田智也「動物園狂騒曲」

佐藤の悲鳴を聞き、近くで雑草を刈っていた園長が駆けつけた。柵越しに惨状を目にした園長は、一気に脱力した様子で、草刈り機のU字形のハンドルから両手をはなした。ストラップのおかげでエンジン部分はぶらさがっていたが、先端の刃がアスファルトの地面にあたって硬い音を立てた。まるでひとりごとのように、園長が「なんだこれは」と口にした。
「お、小田さんが、ベティにやられたんです」
未明の清掃のため、屋外展示スペースに入った猛獣担当の小田に、バックヤードからでてきた六歳のメスのライオン、ベティが襲いかかった。前屈みの姿勢になっていた小田は頭部に攻撃を受けて倒れ、いっぽうのベティは昏倒した小田には興味を示さず、バックヤードへ戻っていった。展示スペースの前を作業用の軽トラで通りかかった佐藤は、その一部始終を目撃し、悲鳴をあげて運転席から飛び降りたのだった。
小田の頭部には、ベティの牙と爪が刻んだ傷が、ありありとみえていた。そこから流れでる血は、まるでそれ自体が生き物であるかのように、展示スペースの床をひろがった。
「……そ、そうだ。救急車を……!」
佐藤は作業ズボンのポケットからスマホをとりだした。その手首を園長の手が握った。
「待て。小田くんは、もう死んでるんじゃないのか」
頭部の傷は深い。彼の指は一本たりとも動かず、呼吸で胸が上下する様子もみえない。
「死んでいるかもしれませんが、それでも救急車を呼ばないわけには――」
「ちくしょう!」
佐藤の言葉を遮って園長が叫び、はげしく髪をかきむしりながら、崩れるようにしゃがみ込んだ。
「ちくしょう! 再開目前で、なんでまたこんなことに」
瀕死の人間――あるいは死体――を前にして、そんなことをいっている場合ではないと思いつつ、園長が悔しがる気持ちは、佐藤にだって理解できた。
一年前、小田と同じ猛獣担当だった職員が、アムールヒョウに首を嚙まれて重傷を負った。バックヤードの檻の不完全な施錠が原因だった。地元企業が運営する、それなりの歴史をもった民間動物園。しかし経営難から人員削減が繰り返されており、従業員がみな疲弊するなかで起きた事故だった。
社の上層部が策定した再発防止の取り組みによって、作業ごとに作成しなくてはならない書類が数倍に増えた。園の従業員たちは、正確に作業をこなすことよりも、チェック欄に記入漏れがないかに神経をすり減らすことになった。
そうやって体裁ばかりを整えた果てに、動物が飼育員を襲う事故がふたたび起きてしまったのだ。原因も、おそらく前回と同じだろう。数度のプレ・オープンをどうにか成功させ、ようやく漕ぎつけた再オープンが明日に迫るタイミングでの、まさに致命的な事態。
「……ちくしょう」
そう繰り返す園長の声は震えていた。体も震えている。この一年間で職員の退職が相次ぎ、深刻な人員不足のなか、草刈りから宿直まで、あらゆる仕事をこなしてきた園長。非難を浴び、私生活をさらされ、家族からも縁を切られ――。
「あのやろう……なんてことをしてくれたんだ」
そういいながら、園長がゆっくりと顔をあげた。慢性的な寝不足で真っ赤に充血した目は、虚ろながらも異常な光を放っていた。立ちあがった園長は、草刈り機の刃を引きずりながら、柵の門扉を開けて展示スペースに入ってゆく。そのとき、バックヤードからベティがふたたび姿をあらわした。
「危ないです。戻ってください!」
佐藤は慌てて、そう呼びかけた。園長が後ろ手に閉めた門扉に錠はかかっていない。だからといって、自分もなかに入って園長を連れ戻す勇気はなかった。ベティは低い唸りをあげ、いつ飛びかかってくるかわからない。
「園長」
「うるさい!」
甲高い叫びが響く。それに呼応するかのように、獣や鳥たちがあちこちで鳴きだした。どこか現実感を失った世界に、佐藤は目が眩んだ。傾いた視界のなか、園長が草刈り機のハンドルをしっかりと握るのがみえた。円形の刃が高速で回転する。まさか――佐藤は必死で大声をはりあげた。
「園長、やめてください! ベティが憎いのはわかりますが――」
「黙れ! あれだけ再発防止と謳ってきたのに、またこんな事故が起きたら、今度こそ園はおしまいだ!」
だからといって、ベティを殺して、なんの意味があるというのだ――。
「そんなことしたって、ベティが小田さんを殺した事実は消えません!」
園長の肩が上下に揺れた。笑っている。笑いながら、ゆっくりと佐藤のほうへ振り向く。
「いいや。消すんだよ」
夜明け前の薄明が照らしだした園長の顔は、もはや知らない人間の顔だった。
「ベティの爪と牙の痕は、小田の頭にしかついていない。そこさえなくなれば、死体をみても、誰もベティの仕業だとは証明できない」
歪んだ笑顔で歪んだ理屈を語り、園長は草刈り機の刃を小田の首に向けた。
櫻田智也(さくらだ・ともや)
1977年生まれ。北海道出身。2013年、昆虫好きの青年・魞沢泉を主人公とした「サーチライトと誘蛾灯」で第10回ミステリーズ!新人賞を受賞しデビュー。2017年に、受賞作を表題作とした連作短編集が刊行された。2021年には、魞沢泉シリーズの2冊目『蟬かえる』で、第74回日本推理作家協会賞と第21回本格ミステリ大賞をW受賞。他の著作に『六色の蛹』『失われた貌』。