下田明子『凍てつく河』

下田明子『凍てつく河』

建国当時のアメリカに思いを馳せ、主人公の生きざまに胸を熱くする


 一夜にして凍りついた大河、澄んだ夜空にきらめく月と星、森の中から出てきたキツネが、男の死体を見つけて遠吠えを始める……『凍てつく河』(原書“The Frozen River”)はこんなふうに始まる。

 舞台は1790年代のアメリカ、メイン州。私が幼い頃に読みふけった『大草原の小さな家』シリーズで書かれた時代より80年近く前の話だ。建国間もないこの国での入植者の生活は、まず生き延びることを目的とした過酷なものだった。けれど、そんな中でも人々の喜びや悲しみは、遠く離れた日本に住む現代の私たちにも通じるものがある。出産、死、結婚、いさかいと和解、今と変わりない日常がそこにはあった。そして、それほど日常的とは言えないが、殺人も。

 そう、冒頭で示されるとおり『凍てつく河』はミステリなのだ。殺人事件が起こり、主人公がその謎を解くというのがストーリーの要になっている。でも私にとってはそれ以上に、この主人公マーサの人となりと、彼女を取り巻く人間模様や当時の風習の描写が興味深く、極上の歴史小説を読んでいるような気持ちになった。この気持ちを日本の読者の皆さんにぜひとも味わっていただきたい、そんな思いを抱きながら夢中で訳した数か月は、私にとって至福の時間だった。

 そして、もうひとつ本書を特徴づけているのが、マーサが実在の人物をモデルにしていることだ。〝伝説の助産婦〟として知られるマーサ・バラードについては、彼女の残した日記と膨大な資料を基にしたローレル・ウルリッヒの『ある助産婦の物語──マーサ・バラードの日記(1785-1812)から』(梅谷俊一郎、宮崎聖子訳、九州大学出版会)に詳しい。

 著者アリエル・ローホンは、あとがきで書いているように産科の待合室で手にしたこの日記についてのパンフレットから想像を膨らませ、架空のできごとを織り交ぜて本書を書き上げた。彼女の描くマーサは情に厚くて思いやりに溢れ、いっぽうでかっとなりやすくて子どもっぽい正義感を振りかざすきらいもあり、実に人間らしい。当時の女性には珍しく読み書きができ、助産婦として、また医療従事者として人の命を預かる仕事をしていたことは彼女のアイデンティティのひとつであり、女性の地位が驚くほど低かった時代にあって、仕事の腕を含めたそのみごとな活躍ぶりには胸が熱くなる。私が味わったこんな感動、わくわく感、怒り、喜び、共感などを読者の皆さんと共有できたら、訳者としてこれほどの幸せはない。

  


下田明子(しもだ・あきこ)
翻訳者。訳書にM・アワド『うさぎ狩りの夜に』(早川書房)、S・ハーマン『うちの子が犯人なわけない』(原書房)、C・マリンズ『若い読者のための美術史』(すばる舎)、C・A・ネルソン『オープン・ウォーター』(左右社)、C・ウッズ『サイコパスに恋をして』、C・ジャレット『性格バイブル』(以上、K&Bパブリッシャーズ)などがある。

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凍てつく河

『凍てつく河』
著/アリエル・ローホン 訳/下田明子

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