【特別寄稿】木村元彦「日本サッカーの育将 今西和男を偲ぶ」

【特別寄稿】木村元彦「日本サッカーの育将 今西和男を偲ぶ」
 日本サッカー界の育成に捧げた85年の生涯を、今年4月に終えた今西和男さん。8月には日本サッカー協会(JFA)により日本サッカー殿堂入りが発表された。森保一日本代表監督をはじめ、多くの指導者と選手を育て上げたその無私の半生を『徳は孤ならず 日本サッカーの育将 今西和男』(小学館文庫刊)に綴った木村元彦氏が、追悼文を寄稿する。

木村元彦(ノンフィクションライター)

「今はオシム、何と言ってもオシム。ジーコじゃないよ」2003年に今西和男さんがジェフ市原(当時、現ジェフ千葉)の試合を見た直後の言葉だった。かつて崩壊していく旧ユーゴスラビア代表を率いた名将が来日した当時、メディアの人間も含めてほとんどのサッカー関係者がその卓越した指導力にまだ気づかずにいた中で、今西さんは早い段階でオシムの人もボールも動くサッカーに注目していた。同時にまた当時の日本代表監督であったジーコの限界にも言及していた。遡ること、1997年10月4日。フランスW杯予選、カザフスタンのアルマトイで加茂周監督を更迭する際に日本サッカー協会の重鎮が「今からジーコを呼べ」と荒唐無稽な人選を叫んでいたときも「ここは岡田(武史)しかおらんでしょう」と冷静な判断で具申したのも今西さんだった。

 指導者の力量を瞬時に見抜く慧眼は図抜けていた。日本代表を飛躍させてW杯にあと一歩のところまで導いたハンス・オフトも、サンフレッチェ広島に初戴冠をもたらしたスチュワート・バクスターも、今西さんからのオファーが無ければ日本サッカーへの貢献の機会さえ得られずにいた。しかし今西さんの真骨頂は、日本最初のGMとしてチームを強化しただけではない。何よりも人を育て、人のために尽くす献身がその生き方だった。森保一を筆頭とする日本サッカー界における多大な人材育成の功績は論を俟たない。自らリクルートしてきた選手をセカンドキャリアまで指導し、その遺志を継いだ者たちが、現在のサッカー界でも数多く活躍をしている。現職の監督だけでも高木琢也(V・ファーレン長崎)、横内昭展(モンテディオ山形)、片野坂知宏(ロアッソ熊本)、森山佳郎(ベガルタ仙台)、小林伸二(AC長野パルセイロ)、風間八宏(南葛SC)と並ぶ。特に全く無名であった長崎の高校生、森保一を見出した経緯については、多くのメディアが伝えていた通りである。森保は、スピードがあるわけでも強靭なフィジカルがあるわけでもなかった。しかし、常にピッチ上で起きている問題を見抜く冷静な判断力と2列先を見渡す広い視野を持っていた。当時マツダサッカー部で総監督を務めていた今西さんは、どこのチームも関心さえ持たなかった森保を6人の採用枠の最後のひとりとして獲得を決めたのである。その後は、森保本人のたゆまぬ努力も相まって、日本代表、サンフレッチェ広島監督、日本代表監督へと上り詰めていく。今西さんには、人間として育ててもらったと森保はよく口にする。私は「人を育む将」という意味で育将という造語を今西さんのノンフィクションを記す際に送った。

「良きサッカー選手である前に良き社会人であれ」今西さんの葬儀に参列したほとんどの教え子たちは、この教えを口にした。数々の報道によって今西さんが、無私の精神で後進の未来のために人生を捧げて来たことは、逝去とともに多くの人の耳目に届いた。

 また人を育てると同時にサッカーを通じて地域に貢献するクラブ、地域に愛されるクラブを構築することも大きな使命として自らに課していた。
 サンフレッチェ広島のあとに乞われて社長に就いたFC岐阜では、常に選手や職員たちに「岐阜のために、岐阜のことを考えて仕事をしなさい」と説いていた。2007年12月に高知大学から加入させたMFの菅和範を2年目にキャンプテンに指名し「菅をFC岐阜の選手の基準とする」と宣言したことは、地元ではよく知られている。

 要はピッチ上でリーダーシップを取れるというだけではなく、菅の人間性を見据えての抜擢であった。菅はプライベートで時間が空けば、岐阜市内の母子生活支援施設に自転車で日参しては、父親のDVから逃れて来た子どもたちと密なコミュニケーションを取って、閉ざされていたその心の解放などに尽力していた。プロであるから、ストイックに練習を積むことは前提として、地域に暮らす人々への感謝や支援を常に忘れないという姿勢を、選手に今西さんは求めていた。それを体現していたのが菅であった。今西さん本人も何度も子どもたちに自身の被ばく体験を語っており、Jリーグが提唱しているシャレン(社会連携活動)をすでに2000年代に行っている。そして手塩にかけたその菅が選手としてさらに成長し、栃木SCからのオファーを受けると「お前の人生にとってこれは良い機会だから」と惜しげもなく送り出した。

今西和男さん
4歳の時に爆心地から1.6㎞の自宅で被ばくした今西さんは、その経験を語り平和を訴え続けていた。(写真は2016年8月6日)

 今西さんは、その後、前任の経営者たちが失墜させていた地元財界からの信頼も回復させて西濃運輸などからの継続支援の約束も引き出していた。しかし、志半ばで社長を解任されて岐阜を追われた。その後は広島に戻り、一線を退きながら、慕って定期的に訪れてくる教え子たちとの会食「イマニシ会」を開きながら、彼らの人生を応援していた。

 今西さんの高い志を知っていただけに突然の逝去は本当に悲しいことであった。そして流れて来た今西さんの日本サッカー殿堂入りの報道。

 なぜ、殿堂入りは生前に成されなかったのか。そのことが悔やまれる。すでに日本スポーツ学会は2016年に今西さんの長きにわたるその育成活動に対して大賞を授与している。今になって殿堂入りに選出する日本サッカー協会は、傘下にあるJリーグのクラブライセンス事務局が、FC岐阜の社長時代に不当な人事介入をして、今西解任を仕向けたことをどう思っているのだろうか。拙著『徳は弧ならず 日本サッカーの育将 今西和男』にその酷い経緯を記したが、ライセンス制度を盾に合理的な論拠も示さずに「(今西社長の)デスクもパスも即座に取り上げろ」と岐阜県庁に命令を下していた。この屈辱は当時のクラブスタッフは誰も忘れていない。

 古田肇知事(当時)もまたこの圧に屈し、FC岐阜Jリーグ加盟の最大の功労者を経済界との意見交換会で叱責し、やがて解任を告げた。愚かである。行政が守っていれば、その後、何人の森保一が岐阜から生まれたことであろう。
 岐阜から追われるまで、今西さんのご家族はこの地で骨をうずめるつもりでお孫さんも含めた三世代で生活されていた。それが突然、立ち退きを余儀なくされたのである。

 殿堂入りの掲額式典は9月1日に行われ、ご遺族が出席されて授与されるそうだが、Jリーグは理不尽な圧力で自らが、この育将を排除した事実については、組織の歴史として知っておくべきである。そして協会はご苦労をかけたことの声掛けをして然るべきであろう。(編集部注:本稿執筆は8月末)
 今西さんは、岐阜で何があったのか、最後まで愚痴一つ漏らさず、鬼籍に入られた。「経営者としては失敗」というレッテルをはがそうともしなかった。逝去後の殿堂入り。私は、思わず「仁義なき戦い」のラストシーンの広能昌三(菅原文太)のセリフが脳裏に浮かんだ。
「今西さん、こんな、こがいなことしてもろて満足か」

 私は『徳は孤ならず』の結語にこう記した。「今西和男。生涯に章飾なし。されど孤独にあらず。徳は弧ならず必ず隣有り」
 殿堂入りの前も後も、我々は何も変わらず粛々とイマニシ会を継続し、その遺志を継いでいくだけである。
 

徳は弧ならず 日本サッカーの育将 今西和男

『徳は弧ならず  日本サッカーの育将 今西和男
木村元彦=著
小学館文庫

木村元彦(きむら・ゆきひこ)
ノンフィクションライター、ビデオジャーナリスト。中央大学文学部卒。スポーツ人物論、民族問題の取材を続ける。『オシムの言葉』で第16回ミズノスポーツライター賞最優秀賞受賞。著書に『悪者見参 ユーゴスラビアサッカー戦記』『終わらぬ「民族浄化」セルビア・モンテネグロ』『蹴る群れ』『争うは本意ならねど』『爆走社長の天国と地獄 大分トリニータv.s.溝畑宏』『オシム 終わりなき闘い』『13坪の本屋の奇跡』『コソボ 苦闘する親米国家』『労組日本プロ野球選手会をつくった男たち』など。


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