著者の窓 第57回 ◈ 月村了衛『腐魚の海』

著者の窓 第57回 ◈ 月村了衛『腐魚の海』
 都内の企業をリストラされ、妻の故郷である港町に移住した垂たる水み柊しゅう一いち郎ろう。しかしその町では暴力団員を交えた密漁が横行していた……。月村了衛さんの新作『腐魚の海』(小学館)は、犯罪とは無縁で生きてきた主人公が、地方にはびこる悪に呑みこまれていく衝撃のミステリー。日本社会の暗部をえぐる力作について月村さんにうかがいました。
取材・文=朝宮運河 撮影=松田麻樹

ノンフィクションから知った衝撃的な事実

──『腐魚の海』は昨年から今年(2026年)にかけて「週刊ポスト」に連載された長編です。執筆のきっかけは。

 どんな作品にしようか最初に打ち合わせをした際に、「週刊ポスト」の編集者さんが「今度こんな本が出るんです」と一冊のノンフィクションを持ってきたんです。それが『対馬の海に沈む』。窪田新之助さんの開高健ノンフィクション賞受賞作で、JA職員による巨額横領事件の真相を追ったものです。さっそく読んでみたらこれが面白かった。『対馬の海に沈む』は職員の行っていた不正が、JAや地域住民にも利益をもたらしていたことを暴いていますが、同じようなことは日本各地で、たとえば漁協でも行われているんじゃないかと思ったんです。気になって調べてみたら、まあ出るわ出るわ。どうして全国ニュースで報じられないのか不思議に思うほど、漁協関連の不祥事が見つかりました。それと関連して思い出したのが、鈴木智彦さんの『サカナとヤクザ』という本。これは密漁に暴力団員が関わっていることを明らかにしたノンフィクションで、日本の食卓を支えているのは密漁なんだという衝撃的な事実を突きつけています。この2冊にヒントをもらいながら、山陰の漁港を舞台にしたプロットを組み立てていきました。

──主人公の垂水柊一郎は東京の会社をリストラされ、妻・香苗の故郷である暮内町に移住してきます。月村さんの中で、彼はどのようなキャラクターですか。

 柊一郎は「普通の人」にしようと思っていました。どこにでもいそうな都会からの移住者が、異常な状況に巻き込まれていく。その落差を際立たせるために、あえて強い個性のない男性として描いているんです。柊一郎という名前も、埋没しすぎない程度には個性的で、でも決して珍しい響きではないというラインを狙ってつけました。

月村了衛さん

──移住からほどなくして、香苗と義父は釣りに出かけた海で死亡。その死に不審の念を抱きながらも、柊一郎は町の住人たちとつき合いを続けています。一人では生きていけない地方暮らしの実態が、リアルに描かれています。

 町の生活や住人たちをどこまでうまく描けたのか、作者自身には判断できませんが、連載終了後に担当さんから「アンケートの反応がすごくよかった」とうかがってほっとしました。そういう嬉しい話は、連載中に教えてくれよと思いましたが(笑)。ゲラを読んだ全国の書店員の皆さんからも「自分の地元のようだ」「こういう町は本当にある」というようなご感想をいただきましたので、一定のリアリティは出すことができたのかなと思っています。

夜の海で助けた「怪物」とは

──ある夜、柊一郎は町の漁師たちが密漁する現場を目撃。町の秘密を守るため、彼も密漁仲間に引き入れられてしまいます。

 担当さんが漁業の裏事情にも詳しくて、密漁に関する具体的なエピソードもうかがったんですが、それをそのまま書くわけにはいかない。複数の事例をミックスして、具体的なモデルが浮かんでこないような書き方を意識しました。気をつけたのは方言の書き方ですね。物語の舞台を特定されてしまっては大変なので、島根、広島、岡山あたりの方言を混ぜ込んで、どこの地方とも言えないような方言を作りあげました。似た地域があると思っても、あくまでフィクションだと思ってください。

──町の住人たちは密漁という不正を黙認しているばかりか、漁協の共済から多額の保険金を得るなどの利益を得ています。暮内町のダークな面が、徐々に明らかになっていきます。

『対馬の海に沈む』のJA職員と同じような不正をして、漁協や地域住民に利益誘導をしているのが坂巻という漁協職員です。この小説では脇役にすぎないのですが、彼のはからいによって住人が多額のリフォーム代を手に入れたり、入院費を補償されたりというシーンを織り交ぜることで、この町の住民全員が不正に荷担しているんだ、イノセントではないんだということを端的に表現できるかと思いました。たとえ明らかな不正であっても、日常の光景として見慣れてしまえば、おかしいと感じられなくなってしまうんですよね。

──それと前後して、柊一郎は夜の海で一人の男を助けます。彼はイルナムと名乗る北朝鮮からの脱北者で、通報しないでくれと懇願します。柊一郎と同居生活を送ることになるイルナムは、この作品の最重要人物です。

 イルナムは最初にプロットを作った段階から登場していました。本の帯に「夜の海で助けた男は『怪物』だった」とのコピーがありますが、まあそういう人物ですね。「週刊ポスト」の編集部にはプロットを渡してあるのに、柊一郎とイルナムがバディになると思い込んで、二人が一緒に戦う場面を楽しみにしている人がいたそうですが(笑)、中盤でそんな相手ではないことが分かってくる。登場シーンからクライマックスまで、インパクトのある人物として描くことができたのではないかと思います。

月村了衛さん

──断ることができず、ついに密漁の仲間に引き入れられた柊一郎。そこで彼は暴力団員が密漁と深く関わっていることを知ります。

 どこの土地でとは口が裂けても言えませんが、実際こういうことはあるようです。今、多くのヤクザは経済的に苦しく、漁業がもたらす利益は大きいですからね。そうした事情に加えて、柊一郎をがんじがらめにする恐怖の対象としても、後半のバイオレンスな展開を支える要員としても、多くのヤクザを登場させる必要がありました。私は見てのとおりのヘナチョコなのですが、なぜかヤクザのキャラクターを出すと受けるんですよ。今回は鰐口というヤクザが圧倒的に人気でしたね。初登場時にはそこまで作り込んでいなかったのに、ごく自然に独特の個性を発揮して、最後までいい働きをしてくれました。

ムラ社会の閉塞感が感じさせるもの

──自宅に匿ったイルナムと密漁。2つの大きな秘密を抱えながら、柊一郎は家族の死の謎を探り続けます。彼を突き動かしていたモチベーションとは何だったのでしょうか。

 どうして妻と義父が死ななければならなかったのか、という素朴な疑問ですよね。そもそも事故なのか事件なのかも分からない。なんだか腑に落ちないという気持ちがある。といっても彼は普通の市民ですから、具体的に何ができるというわけでもないんです。町の秘密を暴きたいという強いモチベーションもない。ただ密漁の実態に触れたことで、「事故じゃなかったんじゃないか」という確信が徐々に強まっていく。大きな渦に巻き込まれて、気づいたら大変なところに立っていたという感じです。

──漁協の事務職員が謎の失踪を遂げるという事件も発生。町を覆う不穏なムードはじわじわと高まっていきます。閉鎖的な地方ならではの怖さが、サスペンス満点の筆致で描かれています。

 こういう事件は現実に起こっていることです。大きく報道はされませんが、共同体の禁忌に触れてしまって、不審な最期を遂げた人はたくさんいる。もし読んでいて「ありそうな話だな」と感じたとしたら、こうしたムラ社会の閉塞感や不条理が、日本人共通の認識として体に染みついているからではないでしょうか。

月村了衛さん

──香苗の元同級生でスナック従業員の理恵の助けを借りながら、町の秘密を探っていく柊一郎。ついに彼は暮内町の将来を左右する、大きな秘密に突き当たります。

 後半に入って物語が転調したように感じるかもしれませんが、当初構想していたとおりなんですよ。密漁も、保険金の不正受給も、後半明らかにされる町の秘密も、すべてが相似形をなしており、緊密に繋がっているんです。1980年代に作られた『人魚伝説』という映画をご存じですか。漁港での殺人と復讐を描いた日本映画で、カルト映画のように扱われることも多いですが、今見ると先駆的な内容でもある。実はその要素も一部取り入れています。漁協、密漁、そして『人魚伝説』。この3つの要素は、プロットを作る時点ですでに頭にありました。

ラストシーンに込められた複雑な思い

──この作品が突きつけてくるのは、地方に深く根を下ろした利権構造。暮内町で進行している事態は、日本社会全体とも共通するものですね。

 おっしゃるとおりだと思います。上から下までこの構造に絡め取られていますよね。私だって読者を絶望させようと思って書いているわけじゃない。エンターテインメントですから、未来への希望を感じさせたいという気持ちはあるのですが、現実社会を反映させるとなかなか厳しい。さまざまな社会問題を取材するたびに、「こんなに腐敗しているのか」と愕然とさせられますよ。ほぼ絶望的だと思います。といって未来を諦めたくもない。そういう複雑な思いが、この小説のラストシーンには反映されています。

──クライマックスでは逃げる柊一郎たちを、凶悪な敵がどこまでも追ってくる。手に汗握るサスペンスとアクションは、月村さんの真骨頂といった感じですね。

 ああいうシーンを書くからには、どこまで派手にやれるかですよね。追いかけっこや銃撃戦を馬鹿馬鹿しいと感じる方もいるかもしれませんが、それこそがエンターテインメントですから。持てる技術を注ぎ込んで、読者の期待に応えたいと思っています。エンターテインメントも日々進歩していて、たとえば映画の「ターミネーター」が公開された当時は、ラストの執拗な追跡が話題になりました。それが今ではあのくらいは当たり前になっている。すでにあるものの先を目指さなければ、現代の読者を満足させることはできません。

月村了衛さん

──地方のシビアな現実をえぐったエンタメであり社会派ミステリーですが、幕切れにはやや幻想的な要素も入りこんできます。それが物語の余韻をいっそう深めていました。

 あれは柊一郎がそのように解釈したというだけで、事実かどうかは分かりません。ただあのようにでも解釈しなければ、こんな事件は納得ができない。現実から半歩はみ出した、マジックリアリズムに近い手法を意図的に使っています。ところで今お話ししていて気がついたのですが、私は日本のリアルな現状を書いていたつもりで、いつの間にか民俗学的・神話的な世界へと足を踏み入れていたようです。この物語をどこに着地させるべきか探るうちに、より日本的で原初的なものに回帰していたんですね。

──歪んだ構造がなくならない限り、こんな事件はいつ起こってもおかしくない。そう感じながら読みました。『腐魚の海』を手にする読者にメッセージを。

 私の小説はよく悪人だらけだと言われますが、連日報道されるニュースの方がフィクションよりもずっとひどい。昔ならたちまち政権が吹き飛ぶような不祥事が相次いで起こり、誰も責任を取らないまま、曖昧に忘れ去られていく。こんなことを続けていたら、いつかとんでもない災いが降りかかるかもしれない。まずは楽しんでいただくのが一番ですが、そんな危機感を少しでも抱いてもらえたら嬉しいです。


腐魚の海

『腐魚の海』
月村了衛=著
小学館

 

月村了衛(つきむら・りょうえ)
1963年大阪府生まれ。早稲田大学第一文学部文芸学科卒。2010年『機龍警察』で小説家デビュー。12年『機龍警察 自爆条項』で第33回日本SF大賞、13年『機龍警察 暗黒市場』で第34回吉川英治文学新人賞、15年『コルトM1851残月』で第17回大藪春彦賞、『土漠の花』で第68回日本推理作家協会賞長編および連作短編集部門、19年『欺す衆生』で第10回山田風太郎賞、26年『地上の楽園』で第21回中央公論文芸賞を受賞。他の著書に『対決』『半暮刻』『虚の伽藍』『普通の底』『地上の楽園』『テロル』など。

月村了衛さん

市街地ギャオ『MayBe ficTIon』
「推してけ! 推してけ!」第67回 ◆『MayBe ficTIon』(市街地ギャオ・著)