滞米こじらせ日記~愛しきダメな隣人たち~ 桐江キミコ 特別編(小説) 三郎さんのトリロジー③
三郎さんだけが、いそいそと動き回っている。
「奥さんは、羽振りがよかったときは、お茶やお花の教室に通ってるだけの優雅な社長夫人だったのに、今はどこかでパート勤務してるみたいよ。もう、それだけで、会社の台所がどんな状況か、わかるわよね」
おしぼりを折りたたんでステンレスの受け皿に戻すと、銀子さんは続けた。
「今の社長になってからよ、会社の調子が傾いてったのは。やっぱ、跡取り息子っていうのは、どうしょうもないんだよね」
今の社長が4代目か5代目なんだから先代の社長だって跡取り息子だったはずなのに、銀子さんはもっともらしく言って、またコップの水をごくごくと飲み干した。
「人がなってない会社は未来がないのよね、まさに孤城落日の観があるね」
当てつけなのか自嘲なのか聞こえよがしに言うと、銀子さんは、運ばれてきたアジの南蛮漬けを箸で器用に切って口に放り込み、専務の愚痴を食べながらつらつら語った。専務が銀子さんの宿敵なのだと知るのに、時間はかからなかった。
「専務ったら、ここでの仕事は暇つぶし程度にしか考えてないんだよ。県庁から天下りしてきたくせに、注文も一切もらってこなくてさ。ほうら、県庁って、紙をいっぱい使うでしょうが。毎日、ふらふら外へ出て行ってはなかなか帰ってこないんだよ。接待費をやたら使うんだけど、いったい何に使ってんのか。社長がいないときは、雑誌読んで暇つぶししてるし」
来たばかりなのに、30年近く勤務している銀子さんの3倍以上のお給料をもらっている、それが銀子さんの気に食わないらしかった。そういえば、高柳で肩書きのないのは銀子さんだけだ。入社して半年という中村(なかむら)さんでさえ、営業課長という肩書きがあった。
愚痴りに愚痴って南蛮漬け定食を食べ終えると、銀子さんは、左手で口を覆って爪楊枝(つまようじ)で歯の掃除をしながら、「お勘定、お願い」と声を上げ、わたしの分も払ってくれた。そのときは知らなかったけれど、銀子さんだって、いろいろな個人の出費を会社の経費で落としていたのだ。アジの南蛮漬け定食もそうだった。
会社に戻ってから、窓の外に三郎さんの姿を探したけれど、見当たらなかった。
確かに、銀子さんの言うように、専務は、ここでの仕事は老後の暇つぶし程度に考えていたのだろう、ひねもす出っぱなしでほとんど帰ってこなかったし、たまに思い出したように帰ってくると、社長がいないときには将棋や釣りの雑誌なんかを読んでいた。でも、まともに働いていないのは専務だけでもなかった。2人の営業マンもどこへ行っているのか知れたものではなかったし、事務所に帰ってくれば、社長のいないときは、携帯でメールのやり取りをしたり、気持ちよさそうに船を漕(こ)いでいたりした。銀子さんだって、処理する伝票も多くはなかったから、手が空くと、好物のカリントウをジャリジャリかじりながら税理士試験の勉強をしていた。大して忙しくもないのに派遣社員なんか雇うまでもなかったけれど、銀子さんは楽をしたかったのだろうと思う。時々、趣味の編み物をしていることもあった。そもそも、わたしだって、言われたことはするけれど、忙しくない職場でちんたらやっているほうがありがたかったから、高柳商店が繁盛していないことを内心うれしく思っていた。
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