源流の人 第12回 ◇ ベロスルドヴァ・オリガ (弁護士)
初めてのロシア出身弁護士が見てきた日本、これからの世界
仙台で高校生までを過ごし、東大大学院で学んだロシア語、日本語、英語のトライリンガルは、言語の壁を越え、国際仲裁の分野で世界を目指す。
北緯五十五度、ロシア連邦・シベリア最大の都市、ノヴォシビルスク。「新しいシベリアの都市」という意味の名が付けられたこの街は、ヨーロッパと沿海地方、中央アジア、モンゴル、そして中国とを結ぶ交通の要衝として、同国第三の街にまで大発展を遂げてきた。機械や冶金、化学などの工業都市として、また、国立オペラバレエ劇場、ノヴォシビルスク国立美術館などを抱える芸術の都として、街はなお繁栄を続けている。さらに、市の南方には研究学園都市・アカデムゴロドクを抱え、最先端のロシアの頭脳が集まっている。冬の日、ともすれば気温が零下二十度を下回るこの街に、百六十万人もの市民が白い息を吐きながら暮らしている。
ベロスルドヴァ・オリガは、この街に生まれ、二歳で仙台に移り住んだ。彼女はロシア出身者として史上初めて、日本の司法試験に合格し、ロシア語、日本語、英語を駆使しながら、東京で弁護士として活躍している。堪能な語学力を活かし、外国人刑事被収容者と弁護士の接見通訳も数多く経験してきた。現在は、米国資本の大手法律事務所ポール・ヘイスティングスに所属し、企業法務などを手掛けている。
「なにぶん、二歳で仙台に来てしまいましたから、ノヴォシビルスクの記憶はまったくないんです(笑)。ただ、日本で言うと『つくば市』のような街で、大学が多く、両親も大学で働いていました」
研究者の父親が東北大学に招聘されたため、一家で来日を決めた。この時、家族は誰一人として日本語を話せなかったという。
夢は「運転士」から「弁護士」へ
オリガにとって、最初の記憶は仙台の保育園だ。先生がロシア語の辞書を片手に、なんとか意思疎通を図ろうと奮闘してくれた。いっぽう、活発な性格のオリガの周囲には、みるみる園児の輪が広がり、皆、すぐに友達になった。それにつれ、日本語もどんどん上達していく。この頃、オリガがなりたかった職業は何だったのだろう。卒園アルバムには「将来の夢」として、「汽車の運転士」と書き記されている。最近、卒園アルバムを見返し、このような記載がなされていたことに気づいたオリガは、非常に驚いているという。
「男の子っぽかったんです。とにかく外で遊ぶのが好きでした」
オリガと同じように、友達との交流を通じて日本語を習得していった兄とは、日本語で会話した。両親とはロシア語だ。ロシア語には男性名詞や女性名詞、中性名詞があり、日本語の構造とは程遠い。両親はルーツを忘れさせまいと、根気強く指導してくれた。そして、英語も、四歳ごろから集中的に学び始めていく。これが功を奏し、彼女はロシア語、日本語、英語の能力すべてをネイティブレベルに引き上げていった。TOEIC(国際コミュニケーション英語能力テスト)では満点を取るほどに上達した。
オリガが小学校低学年だった時の、ある日。テレビを観ていた兄が、こう言った。
「僕、弁護士になりたい!」
悪事を次々と裁く爽快な姿が、画面に映っていた。
「兄の背中は、妹からしたらすごく大きいんです。乗り越えたいと思いました。『お兄さんが弁護士を目指すんだったら私も!』って」。この瞬間、オリガの目指す夢は「弁護士」になった。
美しい金髪に青い目という風貌は、いじめに遭いやすそうだが、そういう体験はなかったという。
「幼い頃から親に、コミュニケーションの力がすごくあるので、それを大切にしなさいと言われていました。ちょっと友達に笑われても、気持ちは芸人みたいな感じですかね(笑)」
友達には自分からフレンドリーに話しかけることが多かったという。
「それで嫌がられたら近づかなければいい。絶対にみんなから好かれることはないと思うんです。でも誰かからは絶対好かれるので、数撃てば当たるではないですけれど(笑)、絶対うまが合う人が現れてくると思って接していました」
東北の名門・宮城県仙台第二高校に入学し、学生生活を順調に過ごしていた一年生の時、東日本大震災が起きた。あの烈震の瞬間、オリガは模試を終え、家路を急ぐべく自転車で信号待ちしていた。
「隣の建物が四十五度に傾くくらい揺れて、驚きました。ほんの少し先では建物の外壁が落ちました。タイミングがずれていたら、ただごとでは済まなかった。いま、生きていること自体が奇跡だと思っています」
家族も皆、無事だったが、よりによって、約四千七百キロ離れたノヴォシビルスクから、オリガの祖父母が仙台に遊びに来ていた。オリガの自宅では、日本語も話せぬ祖母が一人、これまでの人生で経験したことのない大地震に、パニックになっていたという。祖父母はほどなく離日。原発事故を経て、大使館からは帰国するよう諭されたが、オリガ一家はその後も仙台に残り続けた。
「接見通訳」で見えてきた問題
慶應義塾大学の法学部に進学。そこで勉学に励み、「弁護士」になりたい気持ちはより一層強くなるばかりであった。慶大卒業後、東京大学法科大学院に進学する。
ところで、日本においては、外国籍ではたとえ司法試験に合格したとしても、検察官や裁判官にはなれない。
「どうしてもなりたいなら、帰化(日本国籍を取得)すれば良いんです。私は二十数年間も日本に住んでいます。その道もなくはありませんでした」
けれども、と、彼女はこう言葉を繋いだ。
「日本国籍を持ったところで、日本人になれるわけではありません。事件処理に携わった時、私の背景を知らない人からは納得してもらえない場面が想定されると思います。踏み込んで良いところと、ダメなところがあると思います。それで弁護士へ(進路が)納まりました」
学びを深める一環として、外国人の被告と弁護士とのコミュニケーションを担う「接見通訳」に従事するなかで、日本国内でさまざまな軋轢に苦しむ外国人の姿を目のあたりにしてきた。オリガは当時を振り返る。
「私と同年齢ぐらいのロシア人女性で、騙されて不法就労となった人の通訳に就いたことがありました。うまい話に乗っかってしまって、気がついたら違法で、もう身動きができず、結果、逮捕されてしまった。情報が乏しいために騙されたんです。最初から分かっていたら来日しなかったはず。そういう現状を発信していく重要性を痛感しました」
史上初の快挙
ロシア国籍者として史上初めて、オリガは司法試験の予備試験、新司法試験に受験一回で合格を果たした。予備試験は合格者四パーセントという超難関である。しかも合格したのは東大法科大学院の在学中のことだった。そして司法試験の合格後、法曹資格を得るため、司法修習生となり、司法修習中は、国際労働機関(ILO)の東京事務所でインターンを経験して、二〇一九年十二月、弁護士登録。ところがオリガは仕事をしながらも東大に通うことを決断し、今年三月、特別成績優秀者として表彰され、大学院を修了した。
「司法試験に受かった段階で、法科大学院を皆、辞めるんですよ、私が『残る』って言ったら、驚かれました。『なんで残るの?』って(笑)」
それは今後、世界を舞台に活躍するビジョンを見据えての判断だった。
「海外で弁護士として活躍していくには、大学院卒業という肩書きは未だに重視されます。多くの場合、単に大学を卒業しただけの経歴では相手にされません。大学院で専門的に学んだというキャリアが必要なんです」
そして、彼女自身、司法試験に合格したからという中途半端な理由で辞めるという選択肢は彼女の辞書にはなかった。司法修習後、大学院に戻ってから、米国と日本の労働組合法を比較し、研究論文を書いた。
インターンに出向いたILOでは、二〇一九年にILO総会で採択された「暴力及びハラスメント条約」普及のため奔走した。また、末端に行けば行くほど劣悪になる労働環境についての知見を深め、国内にとどまらず世界規模での視点を培っていった。日本女性が置かれている立場についても深く考えるきっかけになったという。
言語力を生かして架け橋に
弁護士としてスタートを切ったオリガに、さっそく輝かしい「事件」が起こった。国選弁護人としての活動を讚えられ、二〇二〇年十月、「季刊刑事弁護新人賞」優秀賞を受賞したのだ。オリガは快活な表情でこう話す。
「とてもありがたいことでした。国選弁護は、私選弁護と比べて報酬が違うなかで、依頼人の人生を預かります。いろいろな機関に問い合わせをしたりする際、積極的に証拠集めをしたことを評価して下さったのだと思います」
中途半端という言葉は、オリガの辞書にはない。国選弁護に関わる弁護士らの熱意は、彼女自身が弁護士になる前から通訳業を通じて身近に感じ、敬意を持っていた。
「わたしの言語力、法律知識を生かし、人のためになるのであれば、自分にできることは何でもやるという方針です」。オリガはきっぱりこう語る。
弁護士としての活動を通じ、オリガがあらためて実感していること、それは、日本に暮らす人たちの優しさ、温かみだという。
「特に若い人たちは、多様性を認めている人が多く、とても住みやすい国だと思いますね。ただ、世界に発信したり、世界の人と交渉したりする場面では、すこし不利なことがあるかもしれません」
たとえば、ハードな交渉が必要とされるような場面では、和を重んじる日本人は、どうしても相手側の言い分をのんでしまいがちだ。そうすると、後々に禍根を残す。オリガは言う。「私が架け橋になって、スムーズな形で交渉ができるようにサポートできたら、と思います」
相手側が持ってきたA案と、こっちが持ってきたB案で「どちらを採用するの?」という単純な話から発展させ、合意の糸口を探りたい。日本人はA案とB案があればどちらかを選びがちだ。しかし共通の利益を探り、話し合って、新たなC案、D案を模索したい。
「言語の壁も影響していると思います。自信がないと、なかなか発言できず、相手の言い分をイエスかノーかの二択にしてしまう。そういった意味では、わたしの言語力はとても強みになると思います」
日本企業と海外企業を繋ぎたい
今後、力を入れていきたい仕事は、「仲裁」だ。仲裁とは、当事者の合意に基づき、第三者(仲裁人)の判断(仲裁判断)による紛争解決を行う手続きを指す。国境を越える紛争の時、その国の裁判所の判断だけでは、担える限界を超えてしまうケースがあり、今後、海外との企業が絡むトラブルでは、より実効的な紛争解決の手段として、執行しやすいのが「仲裁」だ。現在、取引の国際化に対応した規定を整備する必要があるとして、仲裁法の改正の流れが日本国内でも生まれている。オリガは言う。
「今後、すごくホットな話題になっていくと思います。知識や経験を英語など多言語で積んだ後に、日本語に還元し、日本企業と海外の企業を繋いでいきたい」
交渉から紛争処理、解決へと導く弁護士として活躍したい。活動の蓄積が増えれば、日本企業は、日本の弁護士資格を持つ自分たちを頼ってくれることが増えるはずだ。オリガはそう信じ、日々の業務の研鑽を積んでいる。
ひょっとしたら、数年後、オリガは東京にいないのかもしれない。そう尋ねてみると、彼女は首を横に振った。
「新たな知見を得るために修行に出るかもしれないですけれども、やっぱり最終的には戻ってくると思います。戻ってきたいです。日本が好きなので」
いっぽう、国内に目を転じ、刑事事件を担当してきてオリガが思うのは、法律の知識に触れる機会が少ないために、犯罪の道に巻き込まれてしまう例が、少なからず存在するということだ。
「自分だけの働きかけでは変えられない。特に幼少期に、想像もつかないような生い立ちを経てきた人がいます。環境要因でそうした道に走ってしまう人も多いように感じているのです」
一つの解決策として、オリガは、後進の世代のために子ども向けの「法律図鑑」を編纂し、法律について教えていくことを夢見ている。幼い頃から身近に「法」を感じることができれば、犯罪抑止に繋がる道筋になるかもしれないと考えているからだ。
しっかり寝てしっかり働く
今はコロナで自由が利かないけれど、彼女がいつか再開させたいのが、小学生の頃から続けてきた社交ダンスだという。ジュニア全国大会で準優勝するなど、プロ級の技術を保ってきた。それにしても、語学は満点。ダンスも一流。司法試験に一発合格。
「もちろん、落ち込むことだってありますよ。でも、立ち直りが早いんです。最終的な目標を見定めて、どうすれば現状から改善するかを、つねに考えます」
オリガをよく知る人たちは、彼女がいつも全力で走っている姿を思い浮かべるらしい。空き時間ができたり、何もしないお休みの日ができたりすると、彼女は却って体調が悪くなってしまうのだという。
「とはいえ、一日七時間は寝ています(笑)。しっかり寝て、しっかり働く。何もしない時間がないように、予定と予定の間は、わざと詰めているんです」
困っている人、躓いた人たちを救いたい一心で、重いバッグを抱えながら、オリガは東へ西へ走り続けていく。
ベロスルドヴァ・オリガ(Ольга Белослудова)
ロシア・ノヴォシビルスク生まれ。二歳で家族と共に仙台市に移り住む。慶應義塾大学法学部卒業後、東京大学法科大学院に入学。在学中は堪能な語学力を生かし、外国人刑事被収容者と弁護士との接見通訳を経験。ロシア国籍保有者として日本で初めて司法試験予備試験、新司法試験に合格した。司法修習中、国際労働機関(ILO)でインターンシップを経験。現在は、大手外資系法律事務所ポール・ヘイスティングスに所属し、企業法務などを手掛ける。日本語・ロシア語のほか、英語もTOEIC満点というネイティブレベルのトライリンガル。
(インタビュー/加賀直樹 写真/松田麻樹)
〈「本の窓」2021年6月号掲載〉