畑野智美『若葉荘の暮らし』

畑野智美『若葉荘の暮らし』

コロナ禍で夢見た暮らし


 一昨年の二月、私は世界が変わる音を聞いた気がした。

 知人との別れ際に「感染症がはやっているから気をつけて」と言い合ったものの、ことの大きさを理解していなかった。ただ、なぜか、そこを境目に元には戻れなくなることを感じていた。数日後、世の中の状況は急激に変わっていく。外出を控えるように言われ、楽しみにしていたイベントは中止になり、親しい友人とも会えなくなった。

 私は、ひとりで暮らして、家で仕事をしている。

 行動が制限されても、特に変わらないと考えていた。しかし、どこにも出かけられず、誰とも話せない生活に、徐々に追い詰められていった。多くの人が仕事を失う中、私も感染症に関係があるのかないのかわからない感じで、進めていた仕事をメール一通で反故にされた。会えないという状況は、人を切る側には好都合だっただろう。切られる側には、心を壊すのに充分すぎる出来事だった。

 食べることも眠ることもできなくなり、心療内科に通った。処方された薬は、全く効かなかった。パソコンに向かったら全身が震え、死ぬことを考えた。自ら命を絶った人のニュースを見ると、同じことをしてしまいそうで恐怖を覚えた。

 しばらく休んだ方がいいのだとは思っていたが、そういうわけにもいかなかった。私には、金銭的に頼れる相手はひとりもいない。感染症の給付金などもあったけれど、一時的なものだ。体重は減ったものの、重く感じる身体を引きずって面接に行き、10年ぶりにアルバイトをはじめた。

 アルバイト先は、デパートの中にある手芸用品店だ。ここでの仕事に、私の精神は癒されていった。一緒に働く先輩は優しい人ばかりで、同期とは「昨日のドラマ見た?」と話したりもできる。集中して、生地を裁断しつづけることも、良かったのだろう。何よりも、ちゃんと働ける、生活していけるという実感を得られた。

 二年以上経ち、感染対策をする生活にも慣れてきて、日常を取り戻しつつある。しかし、今も、生活に不安を覚えている人はたくさんいる。幸い、私は、感染症が落ち着いたころに、小説の仕事をいくつかいただけた。それでも、いつまた失うかわからない。

 ひとりで眠れない夜、誰かと暮らすことを願った。結婚したいわけではないし、一緒に暮らせるような友人はいない。依存せず、それぞれが自立した上で、協力し合いながら生きていきたい。「こういうアパートがあればいい」と、想像を膨らませた。

 その夢を詰め込んだのが『若葉荘の暮らし』である。

 


畑野智美(はたの・ともみ)
1979年東京都生まれ。2010年『国道沿いのファミレス』で第23回小説すばる新人賞を受賞。2013年に『海の見える街』、2014年に『南部芸能事務所』で吉川英治文学新人賞の候補となる。主な著書に『感情8号線』『ふたつの星とタイムマシン』『タイムマシンでは、行けない明日』『消えない月』『神さまを待っている』『大人になったら、』などがある。

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若葉荘の暮らし

『若葉荘の暮らし』
著/畑野智美

◎編集者コラム◎ 『てらこや青義堂 師匠、走る』今村翔吾
採れたて本!【デビュー#04】