作家を作った言葉〔第15回〕櫻木みわ
びわ湖のなかの島に住んでいる。車も信号もコンビニもない、人口二百五十人ほどの小さな島だ。去年の冬にひょんなことから住み始め、いつまでいるかもわからないまま、島の文化や高齢者たちの話に惹かれて暮らしている。
島から対岸には定期便で運航している通船が出ていて、片道十分ほどで行き来ができる。いまは観光客も多いけれど、二十五年ほど前まではこの通船はなく、外から島に来るひとは、殆どいなかったらしい。島のひとはだいたい自前の船を持っていて、操縦ができる。高齢化が進むいまも、島民の約六割が、びわ湖で働く漁師でもある。
通船の船長、六十五歳のジンさんも、もと漁師だ。あかるくて、いろんな話をしてくれる。「私は秋に、エリザベス女王の葬儀でイギリスに行ってましたんや。日本船舶協会のひとたちと」というので、ずっと信じきっていたら、「エッ、あの話は冗談や」と、信じていたことのほうを驚かれた。ジンさんが無類の冗談好きだと知ったのは、このときだ。
東京と滋賀を舞台に書いた新作の小説が本になり、出版社の方が、販促用の小さなパネルを作って、私にも送ってくれた。それを通船の中のテーブルに置いてもらっているのだが、ジンさんは、「あのパネルをみて、お客さんたちがワーッて興味持ってはりましたわ」という。むろんこれは冗談だとすぐわかった。
ジンさんは、「またどんどん本を書いて、賞も獲ってくださいね」という。こまった顔をしていると、こちらの不安を察したように、「みわちゃんなら大丈夫や」とニカッと笑った。これも冗談で軽口だ。ジンさんは私の小説を読んだことは一度もない。この会話も、すっかり忘れているだろう。それでもなぜかこころに残って、ふしぎと元気が出るのだった。
櫻木みわ(さくらき・みわ)
1978年福岡県生まれ。タイ、フランス、東ティモール滞在などを経て、2018年に作品集『うつくしい繭』で単行本デビュー。他の著書に『コークスが燃えている』『カサンドラのティータイム』。
〈「STORY BOX」2023年3月号掲載〉