小佐野 彈『ビギナーズ家族』

小佐野 彈『ビギナーズ家族』

停止線ギリギリまで


『ビギナーズ家族』は僕にとって6作目の小説であり、歌集も含めれば5冊目の単行本だ。そして、本作ほど「産みの苦しみ」を味わった作品はない。

 構想を思いついたのは、コロナ禍が始まる前の2019年だった。4年近い歳月をかけて、この長編小説を書き上げたことになる。僕は比較的筆が速いほうで、原稿用紙で200枚前後の中編小説であれば1ヶ月足らずで初稿を書き上げることが多いから、4年というのはちょっと異常だ。

 初めての書き下ろし作品で、しかも慣れないエンタメ長編というせいもあったかもしれない。でも、時間がかかった最大の原因は、著者である僕の迷いと葛藤だ。

『ビギナーズ家族』の執筆にあたっては、僕自身の小学校受験の記憶や、家族を含む身近で起こった出来事、あるいは親しい知人の実話に取材したところが多い。無論、本作はフィクションだから、キャラクターや登場する学校は架空だけれど、やはりモデルは存在する。小学校受験の世界や同性カップルの葛藤を赤裸々に描くことで、誰かを傷つけたり、名誉を毀損してしまうのではないか。この小説を書くことは作家としての僕のエゴで、誰も幸せにしないのではないか――。書き進むたび、そんな疑問や怖れが胸にふつふつと湧き起こって来て、筆が止まった。

 三島由紀夫いわく、作家とは、生身の人間を言葉という虫取り網で採集した挙げ句、標本にまでしてしまう、かなりヤバい生き物である。僕のもう一つのフィールドである短歌の場合、私性の強さゆえ、虫取り網は自身に対して向けられる。しかし、小説の場合、言葉という虫取り網で狙う対象は、往々にして他者である。衝撃的な事件や風変わりな人に遭遇するたび、虫取り網を握る手が疼く。作家自身がどこかで「停止線」を引かない限り、「人間採集」と標本作成は際限なく続いてしまい、取り返しのつかないことになるはずだ。

 4年に亘った本作の執筆や改稿作業のあいだ、文芸誌にいくつかの中編小説を発表し、自伝的長編小説を連載する機会にも恵まれた。小説家として経験を積むなかで、停止線の位置がぼんやりと見えるようになって来た。そして僕はやっと、本作を書き上げることができた。

『ビギナーズ家族』は、超えてはいけない停止線ギリギリまで書き切った作品だと思う。でも、僕にはまだ停止線がはっきりと見えていないから、ひょっとしたら数センチ、越えてしまったかもしれない。

 


小佐野 彈(おさの・だん)
1983年東京都生まれ。慶應義塾大学経済学部卒。台湾台北市在住。2017年「無垢な日本で」で第60回短歌研究新人賞受賞。18年、第一歌集『メタリック』刊行。19年、第63回現代歌人協会賞、第12回「(池田晶子記念)わたくし、つまり Nobody 賞」受賞。小説作品に『車軸』『僕は失くした恋しか歌えない』。

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『ビギナーズ家族』
著/小佐野 彈

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