青山七恵さん『前の家族』
マンション購入とコロナ禍体験から生まれた物語
二〇二〇年発表の『みがわり』、昨年発表の『はぐれんぼう』と、最近の青山七恵さんの長篇は、ユニークな設定とちょっと怖い展開で読者を驚かせている。新作『前の家族』でもまた、中古マンションを購入した女性が奇妙な状況に陥っていく。本作のきっかけは、ご自身の体験にあったという。それは──。
きっかけは自身の体験
「十年くらい住んでいた部屋にすごく愛着があったんです。賃貸物件でしたが、売ってくれないかなと思うくらい(笑)。一生そこでいいと思っていたんですけれど、近所に唯一ここだったら住みたいなと思っているマンションがあって。そうしたら、ある時その物件が売りに出されていたんです」
そこで決心し、二〇二〇年に中古マンションを購入した青山七恵さん。新作長篇『前の家族』は、その経験が出発点にあったようだ。
「ローンを組んでマンションを買うのは私の人生の中で結構大きな出来事でした。なおかつコロナ禍という経験したことのない事態のなかにいたので、考えたことを日記に書き留めておこうとしたんです。小学館さんから〝何か書きませんか〟と声をかけていただいた時も、最初は〝マンションを買うエッセイとかなら書けそうです〟という話をしていました。でも実際に日記を書いているうちに、なんだか作り話っぽいなと思えてきてしまって。今まであまり波風立たない暮らしをしてきたので、自分が一人前にローンを背負って、世間はパンデミックで外出できなくなって……という日記を読んでいると、噓くさく思えてしまったんですね。でも、フィクションにして書けば不思議と信じられる感じがしました。それで、エッセイではなく、小説を書くことにしました」
ただ、実体験をそのまま小説化したわけではない。
「私が引っ越し前に怖れていたのが、今住んでいる愛着のある部屋をいつまでも忘れられずにいたらどうしようということと、新しい部屋に住んでみてしっくりこなかったらどうしようということでした。引っ越してみたら案外大丈夫だったんですけれど、引っ越す前に想定していた、運が悪かった場合の私をシミュレーションしたのが、この小説という感じです(笑)」
中古マンションを購入した女性と、売主の家族
主人公は三十代後半の小説家、猪瀬藍。六年ほど新居を探し続けていたところ、ようやく気に入った中古物件を見つけ、内見に訪れ、部屋の売主の家族と顔を合わせる。それが、夫婦と幼い娘二人の四人家族の小林家だ。その後、無事に手続きやリフォームをすませ引っ越すが、ほどなく小林家の二人の娘、小学生のありさと就学前のまりが訪ねてくるようになる。もとの家が恋しいのかと思い、藍は彼女たちを迎え入れるのだが……。
「虚実ないまぜにしています。私の部屋の売主とは家族構成が違いますが、作中に書いたように内見の際に前の家族がまだ住んでいて、洗濯機がぐるぐる回っている中部屋を見せてもらったことや、その家族から大きな冷蔵庫を譲り受けたのは本当の話(笑)。引っ越した後に前の家族が訪ねてくるところからは完全にフィクションです。実は、前の家族ではなく私自身が、自分の住んでいた前の部屋が気になってよく見に行っていたんです(笑)。自分と趣味の違うカーテンがついているのを見て、勝手に〝違うんだよなあ〟と思ったりして。それで、もし自分が購入した部屋の前の住人が私みたいなタイプの人間だったらどうなるんだろうと考えました」
今回は、「交換」というモチーフもなんとなく頭にあったという。
「私にはなぜか根源的に、〝交換されちゃうかも〟という恐怖があるんです。昔から何かを一生懸命やっていても、〝別にこれは私でなくてもできるよな〟と、ふと我に返ってしまう瞬間がありました。今回の小説も、どこかにそういう不安の要素が出てくるだろうと思いながら書き始めました」
ある時、娘たちが通っていると知った小林家の母親、杏奈も藍の部屋にやってくる。杏奈は藍を自分たちの新居に招き、そこから奇妙な交流が始まっていく。それは意外にも、藍にとって心地のよいものだった。
「私もコロナ禍前はよく、友人の家族の食卓に招かれることがあって。その時、サブ家族感というか、準メンバーとして家族に加えられているポジションが居心地よかったんです。でもそれって〝いいとこ取り〟なんですよね。家族の温かみや楽しいところだけ味わって帰っていくので、責任がないですから。それと、家族って外から見たらよくわからなくて、その一員になってみないと見えてこないものがある、ということも考えていました。藍のようにより深く他人の家に招き入れられたら何が見えてくるんだろうと思いながら書きました」
一方、新居のマンションで藍は階下に住む親子と親しくはなるものの、夜中の物音に悩まされたり、玄関前に里芋の皮をばらまかれたりと不穏な出来事にも遭遇。不安が募った藍が頼ったのは小林家だ。藍を心配し、新居に連泊させてくれる杏奈たちに接するうち、藍は〈自分がいかに自分一人の生活を守ることに汲々としていて、他人の孤独に無関心だったか痛感〉するのだったが──。
自立というもののとらえ方の変化
青山さん自身、新居を購入した後、どんなことを感じたのか。
「達成感みたいなものはありました。それは、自分の場所を手に入れた達成感というよりは、銀行に通って返済計画を立てたり、リフォーム会社に行ってフローリング材を選んだりと、ものすごく面倒臭いことを一人でやり切ったという達成感です(笑)。でも同時に、引っ越しの時には友達に手伝ってもらったりご飯を作ってもらったりして、人の厚意をあてにしている自分もいたんですね。自分の中の自立というものが完成形に近づいたと思う一方で、自立するにも限界があるなと気づきました。これまで一人で何かできるたびに、またひとつ自立したという体験を漆喰みたいに塗り重ねてきて、マンションを買ったことで最後の最後に何かがガチッと固まった感じがしていたんです。でもそれは、意外と脆く崩れ去るものかもしれないという気配を感じています」
それまで青山さんの中では自立とは漆喰やセメントで作られたもののような堅固なイメージだったが、それは違うと思うようになった。
「私は自立をポジティブな意味でとらえていますけれど、完全に自立するということは、逆に自分の世界を狭くするような気がしたんです。堅固なセメントとかだけじゃなく、わらとか紙くずとかも入ってるやわやわな自立のほうが、後で息苦しくならないんじゃないかな、って。隙のない自立ではなく、もっと雑な意味の自立でいいのではないかと思うようになりました」
しかし、藍と小林家の関係については、読者はなにか不穏な空気を感じるはず。それは、藍が自立するどころか、小林家に頼り切っているように見えるからかもしれない。
「私も藍と同じ立場になったら、ずるずると人に甘えてしまう気がします。というのも引っ越して人間として強くなった気がしていたのに、手伝ってくれる人が現れると、人に世話してもらうことってこんなに甘美なのかと感じてしまったんです。コロナ禍で人と会えなくなった時期だったから余計人の好意が身に沁みた、ということもあったかもしれません」
ちなみに藍は作中、小説執筆においては筆が進まずにいる。以前フランスで出会った女性についての小説を書こうとしているのに、彼女の部屋が思い浮かばないのだ。その時に藍が漏らす〈わたしは誰かの部屋ではなく、おそらくは自分の部屋こそを描くべきなのだと思う〉という心中の言葉は、そのまま他人の家で暮らしている彼女の実生活と重なるようにも読める。
「以前書いた『みがわり』でも、新作を書けずにいる新人作家を主人公にしたので、私は小説内に作家を出すとなぜかスランプにさせたくなるのかもしれません(笑)。ただ、小説家は自分の内にあるものを書くべきなのかもしれませんが、そこに到達するまでにはちょっと遠回りが必要な時があるんです。私も普段小説を書く時、自分の世界からちょっと出てみないと本当に自分が考えていることにたどり着けない感覚があります。他人の部屋を経由しないと自分の部屋にたどり着けない、みたいな感じです」
不安について考えた作品
終盤は、「運が悪かった場合をシミュレーションした」と青山さんが言う通り、起きてほしくないことが起きてしまう。『みがわり』といい、前作の『はぐれんぼう』といい、最近の青山さんの長篇はどれもやや怖い展開が待っているのが特徴だ。
「『はぐれんぼう』と『前の家族』はだいたい並行して書いていたんです。コロナ禍が始まっていたせいか、どちらも不安というものが元にありますね。経由の仕方が違うだけで、結局は自分の中にある不安というものをどうにか自分の手で摑みたくて書いたように感じます。今回の場合は、孤立することと、依存することへの不安を、藍の部屋と、小林家の家経由で考えたといえます」
現在中古マンション購入を考えている読者がいるとしたら、やや怯んでしまいそうな展開ではあるが、絶望的な結末というわけではない。「運が悪い場合をシミュレーションしてもこれくらいだから、大丈夫かなと思ってもらえたら(笑)」と青山さん。
ちなみに、ご自身の引っ越し後の生活はどうなのだろう。
「前の部屋への思いはやっぱり時間が解決して、今は前を通っても気にならなくなりました(笑)。今住んでいる部屋への愛着も強くあるので、私の場合は幸運なパターンでした。住んでしっくりこなかったらどうしようとは思っていましたが、住んでしまえば案外、そこに馴染むしかないということかもしれません。それもあって、今回は一応、希望はある結末になったと思っています」
今は、文芸誌「すばる」で新作『記念日』を連載中だ。
「異なる世代の三人が出てくる、女性の身体についての話です。それもルームシェアをしている人たちの話なので、私は同居というモチーフが好きなんです。馴染みのある型、馴染みのある材料で、ちょっとずつ違うものを書く、というのが私の書き方なのかなと思っています」
青山七恵(あおやま・ななえ)
1983年埼玉県生まれ。筑波大学図書館情報専門学群卒業。2005年「窓の灯」で文藝賞受賞。07年「ひとり日和」で芥川賞、09年「かけら」で川端康成文学賞を受賞。著書に『わたしの彼氏』『ハッチとマーロウ』『私の家』『みがわり』『はぐれんぼう』など。
(文・取材/瀧井朝世 撮影/浅野剛)
〈「WEBきらら」2023年8月号掲載〉