採れたて本!【エンタメ#12】
舞台の上で誰かを演じるために、自分の体を変えなくてはいけない。それはバレリーナという職業を全うしようとする女性たちにとって、避けられない苦労である。本書の主人公・啓美は、バレエ教室を経営する母に育てられ、物心ついた時からバレエのために生きてきた。激しい減量、苦しい練習、いいバレリーナになるための苦悩の日々。その末に彼女は家出し、ある宗教団体に入ることを選択する。この物語は、彼女が宗教団体の施設を飛び出したところから始まるのだ。
本書で描かれているのは、宗教団体からの逃亡生活を続ける啓美の日々と、彼女が出会った女たちの生き様である。その中心にあるのは、逃亡のため啓美が他人になりすまそうとする姿だ。啓美は、バレエという他人を舞台で演じる世界のために、自分を極限まで削ぎ落としていた。が、その末の逃亡生活でもまた、他人になりすますために自分の存在を消そうとするのだった。
犯罪に巻き込まれ、自分というアイデンティティを変えなくてはいけなくなった啓美の生き様は、とても特殊だ。しかし一方で、人生に応じて自分のアイデンティティを組み替えていく経験をした女性は、案外少なくないのではないだろうか。たとえば女性の場合、子供を産んだら母親というアイデンティティを突然与えられる。あるいは結婚したら、奥さんと呼ばれたり、名字すら変わったりする。しかしその変化は、決して自然に起きていることではない。それは女性たちが、アイデンティティに合わせた自分になろうと努力した末に──たとえばお母さんらしくだとか女性らしくだとか──起こる変化なのだ。そういう意味で、本書に描かれている女性たちの生き様は、タフで一風変わった道のりではあるが、現実世界から決してそう遠く離れたものではない。啓美や彼女の周囲にいる女性たちに、きっと共感できる人も多いはずだ。
啓美がどのように自分のアイデンティティを選び取り、そして彼女はどうやって自分を変化させるのか。本書で描かれた葛藤と努力の過程は、彼女が本当に欲しいものを選び取れるようになるまでの成長物語でもあるのだろう。啓美がバレエの舞台を捨てた先で手に入れたアイデンティティを、本書の結末部分でぜひ一緒に見てほしい。
『ヒロイン』
桜木紫乃
毎日新聞出版
評者=三宅香帆