採れたて本!【エンタメ#09】

採れたて本!【エンタメ】

 青春とは客観視しない繊細さのことなのだな、と本書を読むと思う。

 なぜ私たちは若さや思春期の傷つきやすさや逡巡している様子を「青春」などと呼びキラキラしたものだと感じるのだろう。十代の頃なんて、実際は痛みに満ちた残酷な時代であることがほとんどだ。しかしそれでも私たちは若さに対して、畏れにも似た輝きを見出したくなってしまう。若者であるというだけで、そこに価値を発見してしまう。それはおそらく、己を客観的に見ようとしない様子に羨望を抱いてしまうからではないだろうか。本書を読むと、しみじみとそう感じてしまう。『ビューティフルからビューティフルへ』という美しいタイトルを冠した本書は、十代の痛みと苦しみをリリカルに綴った小説となっている。

 語り手は、ナナ、静、そしてビルEと呼ばれる三人の高校生だ。ネグレクトされながら育ったナナ。異性に片思いをしつつ己の体に屈折した感情を抱く静。静かな片思いの相手の後ろをいつもついていってるだけのビルE。それぞれが語る高校生活は、「ことばぁ」の家に集うことが唯一の共通点だ。老婆「ことばぁ」は自分の家に彼女たちを招き入れる。そして三人は、「ことばぁ」から、ある言葉をもらうのだった。

 面白いのが、三人とも様々な事象を繊細に言葉にしようとするのだが、自分のことを客観視できているようで実はまったく客観視しようとしない、主観の強い世界で生きていることである。本書に登場する「社会」や「他人」は、あくまでも彼らに痛みを与える存在として描かれる。虐待する親、片思いの相手、搾取する同性。他人に届く言葉を持っていない主人公たちは、自分の中でぐるぐると言葉をこねくり回す。そして自分たちの痛みを言語にして取り出そうとする。

 そのような、他人のためではなく自分のための言葉を使っている様子に、私は「青春」という言葉を連想するのだ。もちろん彼らの様子を青春だなんて言ったら、彼らは反発を覚えるだろう。そんなキラキラした世界を生きてるわけじゃない、今辛いんだ、と。しかし彼らの言葉は、大人から見ると、基本的に自分に向いた、自分のための言葉である。客観視することを必要としない、主観のみで語られる、自分についての繊細な言葉たち。そのような言葉を使うことに全力を注げるのは、やはり青春の特権ではないだろうか。

 本書で描かれているのは世間で誉めそやされているような青春の在り方ではないかもしれない。それでも自分のための言葉を獲得しようとする高校生の在り方は、彼らなりの思春期をやり過ごすための確かな手触りそのものなのだろう。

ビューティフルからビューティフルへ

『ビューティフルからビューティフルへ』
日比野コレコ
河出書房新社

〈「STORY BOX」2023年4月号掲載〉

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