週末は書店へ行こう! 目利き書店員のブックガイド vol.95 未来屋書店石巻店 恵比志奈緒さん

目利き書店員のブックガイド 今週の担当 未来屋書店石巻店 恵比志奈緒さん

『上海灯蛾』書影

『上海灯蛾』
上田早夕里
双葉社

 人はみな運命の灯に向かう憐れな灯蛾ひとりがである。
 男は僻地の寒村の農家に生まれた。一家が懸命に働いても生活は貧しく、どれほどの労苦を味わえども、富や権力を得る事も、胸躍らせる文化に触れる事も叶わなかった。望んだささやかな愛さえも、終いには金のある人間が奪っていった。
 怒りが男を突き動かした。この世は全て金なのだと悟るほか無かった。
 萎びた故郷を捨て、男は魔都・上海へと海を渡った。

 1840年に勃発したアヘン戦争の終結以降、中国の港には数多くの外国人居留区が置かれ、列強諸国が支配したそれらの地区は「租界」と呼ばれた。特に上海に置かれたフランス租界や共同租界では、西洋の建築や映画、ジャズなどの文化が中国の伝統文化と入り混じり、絢爛たる都市文化を形成していたという。そして当時の裏社会を取り仕切っていたのは「青幇チンパン」と呼ばれる秘密結社であった。

 本作は日中戦争前夜から第二次世界大戦終結までの上海を舞台にしたピカレスク・ロマンである。主人公の吾郷次郎は兵庫県の寒村に生まれ、大金を手にする事を夢見て上海に渡った。あるとき日本人街で雑貨屋を営む彼の元に原田ユキヱと名乗る女が訪ねて来る。ユキヱが持ち込んだ阿片がかなりの上物であると知った次郎は、これを金儲けの好機と踏み、楊直ヤン・ジーという青幇に接触を図る。

 楊直は風貌も金の遣い方も洗練された男であるが、彼もまた貧しい農民の出であり、大規模な鼠害による飢饉から逃れた先で青幇に拾われ、幾度も汚れ仕事をこなし地位を固めていった人間である。過去の経験から日本人に一縷の夢を抱く楊直と、表向きは彼に従いながらもその立場を利用せんと目論む次郎は、民族を超えた義兄弟の契りを交わす事となる。

 本作の冒頭で描かれるのは裏社会らしい手荒な水葬の場面であり、その描写から読み手は早々に物語の顛末を暗示される事になる。緊張を孕む青幇内部の情勢、そして阿片の栽培と流通を巡る関東軍との攻防は次第に熱気と血腥さを増していき、やがて次郎と楊直の関係性にも変化が訪れる。

 作者後記にもあるように本作は史実と創作とを絶妙に織り交ぜた作品である。そうと知りながらも、世界史の一隅でわずかひと時、魔都の幻惑に酔い舞い踊った者達の人生に魅せられ、嘆息した。

 

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