週末は書店へ行こう! 目利き書店員のブックガイド vol.125 ときわ書房志津ステーションビル店 日野剛広さん

目利き書店員のブックガイド 今週の担当 ときわ書房志津ステーションビル店 日野剛広さん

『私労働小説 ザ・シット・ジョブ』書影

『私労働小説 ザ・シット・ジョブ』
ブレイディみかこ
KADOKAWA

 本書は〝私労働小説〟だという。著者がこれまで就いてきた労働、経験を基にした自伝的小説なのだろうと思い臨んだのだが、あとがきを読むと、必ずしもそうではないということが付け加えられている。あくまでフィクションということだ。

 しかし、ここに書かれたことが事実かどうかはともかく、おそらくは似たような体験が著者の身の上で起こり、思想が形作られ、ブレイディみかこという作家が生まれたと想像することは、それほど的外れな話ではないと思っている。

 本書は著者が経験した数々の苦労や受けた仕打ち、その環境の中で育まれたであろう労働観や人間観が小説という形で上梓された思想書だと言える。まんま事実ではないとしても、至極正直な本音が吐露されている。

 

 中洲での水商売に始まり、英国移住後も家政婦のようにこき使われるホームステイ、アパレルショップの売り子、クリーニング工場の作業員、保育士、日本食スーパー従業員食堂のまかない食係……。この小説の主人公〝私〟が転々とする職場、体験が時系列を前後して描かれる。いずれの場においても肉体的精神的苦痛を伴ったり、自分自身を見失いかけたりする中で、他人には譲れない何かを維持することは非常に困難に思える。だからこそただ働く、生きるということの先にある、なぜ働くのか、どう生きるのかという問いへの答えがクリアになっていく。

「搾取って、ぼったくりという意味だったのか」
「数字はある種の暴力だ」
「自分自身が人間としてどんどん低い者になっていく感覚があると、自分が愛せなくなる」
「自分のソウルによくない仕事はやめるべき」
「生活が苦しくなると、花なんて人は買わない」

 数々の〝底辺〟の仕事や労働、関わり合う人との交流を通じて湧き出る至言。決してポジティブな言葉ばかりではないが、働くことにおいて見据えるべき事実が凝縮されている。

〝底辺〟という言葉は職業の貴賎に由来するものではない。劣悪な環境、そして何よりもクソみたいな賃金だからである。重労働に見合うだけの賃金も払われない仕事など、クソ喰らえ!というわけだ。底辺で働く自分は無価値なのだと、自我の喪失をさせてしまうことが、〝シット・ジョブ〟と呼ばれる労働の罪深さなのである。

 

 最終章は、看護師であった主人公の母親についての物語である。

「報われない仕事が向いているなんて、なんという悲しい言葉だろう」

 看護師という尊い(と側から見ている我々が思う)仕事の実態は、美談や感動などで語れるようなものではなく、重労働と低賃金の過酷なケア労働である。それでも職務や生き方、やりがいとして受け入れてしまう従事者。その反動が人格や生活を歪ませる。クソなのは労働そのものではない。知っていながら働かせる体制側である。

 この理不尽な世界に的確かつ鋭い言葉で切り込む著者は、どんなに綺麗で尊いと思われる事柄の中にも欺瞞があるということを見逃さない。しかし、欺瞞の中にも真実がある。ブレイディみかこはそのすべてをすくい取り、文章に落とし込んでゆく。

 

 前々回のコラムにてご紹介した『リスペクト』には、人はパンだけでなく薔薇も必要だというメッセージが込められていた。本書はそれとは対照的に「薔薇よりもパンなのだ」と断言する。どちらにも真実があり、どちらも必要なことなのだ。そもそも人間は矛盾の塊のような生き物だ。ブレイディみかこはこれまでずっと私たちにそう伝えてくれたではないか。

 戦うべき本当の敵はその矛盾を分断にすり替えて、高いところから嗤っている者たちなのではあるまいか。

 

あわせて読みたい本

『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』書影

『ブルシット・ジョブ 
クソどうでもいい仕事の理論
デヴィッド・グレーバー
訳/酒井隆史 芳賀達彦 森田和樹
岩波書店

 安定した収入がありながらどうでもいい仕事をやりがいもなく続ける人々。逆に社会的意義の大きな仕事ほど低賃金で報われないこの世界。その矛盾と本質を鋭く突いた本書は、思想書としては異例の売れ行きとなった。この仕組みを作ったのは誰か?なぜいつまでも変わらないのか?その構造にメスを入れ、社会が真の意味で幸福を掴むためにはどうすればよいのか。これからの世界を変革、再構築するための示唆に富んでいる。
『ザ・シット・ジョブ』のあとがきによれば、今は亡き著者の遺志を継ぐように、英国で本書が予見したことの萌芽がコロナ禍を経て少しずつ表れ始めているとのこと。果たしてわが日本は・・・?

 

おすすめの小学館文庫

『仁義なき宅配』書影

『仁義なき宅配
ヤマトvs佐川vs日本郵便vsアマゾン』 
横田増生
 
小学館文庫

 もはやそれ無しには成り立たないほど我々の仕事や生活上欠かせなくなっている宅配便。業界最大手に潜入した著者が目撃した、企業の冷徹な論理と労働環境の殺伐とした実態。一読しての感想は「こりゃとても無理だ」。
 近年、宅配ドライバーの過酷な状況に世間の関心が高まったのは事実だが、文庫化から既に5年。状況が改善されたどころか、燃料費や物品コスト値上げ等の問題がさらに上乗せされる今、本書がまだ必要とされる事態を憂える一方で、本書が暴くのは企業の理不尽さだけでなく利便性を当たり前だと思い込んで生活している我々の加担だということも、忘れてはならない。

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