週末は書店へ行こう! 目利き書店員のブックガイド vol.189 梅田 蔦屋書店 河出真美さん

書店員コラム_河出さん

『ブラック・スワンズ』書影

『ブラック・スワンズ』
イヴ・バビッツ
訳/山崎まどか
左右社


「イヴ・バビッツという名前は知らなくても、もしかしてあなたは彼女の裸身なら見ているかもしれない」(p.304)

  

 どきりとするような一文で、本書の「訳者あとがき」は始まる。

 なぜ私たちが名前も知らぬ女性の裸身を見ているかもしれないのかというと、あのマルセル・デュシャンが裸身の女性とチェスをする写真があり、その女性こそが当時20歳のイヴ・バビッツだからだ。彼女がアート・シーンやロック・シーンにいかに親しんでいたかは、この「訳者あとがき」や本書に付された作家ステファニー・ダンラーによる文章「誰もこのままでは生きていかれない」にくわしい。

 作曲家の父と画家の母の間に生まれ、名付け親はストラヴィンスキー、著名人の集うパーティで育った、というイヴの生い立ちは、とても華やかだ。しかし、本書に収められている物語は、華やかではない。イヴが描くのは、語り手である「わたし」も含めて、どうしようもない人間たちだ。

 たとえば、「嫉妬」に登場するリチャードは、自分は火遊びを繰り返しているくせに、妻のリディアが別の男とデートしたいと言い出すと、嫉妬のあまりに「斧で自宅をめった打ちにした」(p.13)。「俺は浮気をしてもいいけど、あいつはだめだ!」(p.13)と言って。その身勝手さにはくらくらしてしまう。

 たとえば、「高くついた後悔」の映画プロデューサー、ザックは、サーフィンがしたいがためにクズのような映画をフィリピンで撮ることを決め、それをきっかけとして妻を失うことになる。妻の親友だった性格の悪い女と一緒に暮らし始め、彼女が屋敷の壁を壊したと聞いて、「どうして自分は生まれてきたのか、生きているのか、それも分からないという途方に暮れた顔」(p.123)をするザックのふがいないことといったら。

 彼らにはたぶん、シリアスさが足りない。生きていく上で、他の誰かとの関係を保っていく上で、必要なはずのシリアスさが。「高くついた後悔」には象徴的なシーンがある。「わたし」はお気に入りのホテル、シャトー・マーモントで時間を忘れて恋人と情事にふけっている。何日目かに、ふたりは突如として気づく。煙のような匂いがすると思っていたが、それは本物の煙だった。妙に静かだったのは、戒厳令のせいだった。ふたりはロサンゼルス暴動のただなかにいたのだ。そうと知らないままで。

 このように、彼らにとって、現実は部屋の外で、彼らのあずかり知らないところで起こる。もっと大切なことをやったり、考えたりすべき時に、彼らはたぶんやらなくてもいいこと、やらないほうがいいことをやっている。もっと賢く立ち回れたらよかったのだろう。でも彼らには、うまくやるということができなかったのだ。

 どうしようもなく情けない彼らの物語は、はたから見るとコメディだが、笑いを誘うと同時に、切なさを漂わせてもいる。いい時間は過ぎ去ってしまって、戻っては来ないという切なさ。イヴの文章は、それを知っている人の文章だ。

 

あわせて読みたい本

『真似のできない女たち——21人の最低で最高の人生』書影

『真似のできない女たち
——21人の最低で最高の人生
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おすすめの小学館文庫

父のビスコ

『父のビスコ』
 
平松洋子 
小学館文庫

 幼い日に祖父を訪ねて行った思い出深い寺、露天風呂で食べたみかん、死の近い父が最後に食べたがったビスコ……ここにあるのは著者の歩んできた人生を彩るさまざまな思い出だ。確かに体験したこと、そこにいた人。まるで手を伸ばしたら触れられそうな、けれど二度と戻ってこないものを思い出すことの切なさと、心をじんわりぬくめるような温かさが、文章からあふれ出ている。

   

河出真美(かわで・まみ)
本が好き。文章も書く。勤め先では文学担当。なんでも読むが特に海外文学が好き。趣味は映画鑑賞。好きな作家はレイナルド・アレナス、ハン・ガンなど。最近ZINE制作と文フリの楽しさに目覚めました。


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