週末は書店へ行こう! 目利き書店員のブックガイド vol.49 丸善お茶の水店 沢田史郎さん
『ラブカは静かに弓を持つ』
安壇美緒
集英社
全日本音楽著作権連盟、通称・全著連は、音楽教室でレッスン中に演奏される音楽にも著作権使用料が発生するとして、その徴収に乗り出した。しかし、全国大小の音楽教室で組織される音楽教室友の会は、「レッスンは〝公衆に対する演奏〟には当たらない」として、提訴する構えを見せる。
という枠組みは、モデルになった裁判が現実に存在するのだが、字数の都合で今は措く。
全面的に争う姿勢の全著連は、それに先立って一計を案じる。楽器の製造・販売の大手、株式会社ミカサの音楽教室に生徒として毎週通い、レッスンの模様を録音し、楽曲の著作権が侵害されている証拠を集める。その役割を振られたのが、25歳の橘樹(タチバナ イツキ)。中学生の頃までチェロを習っていたという経歴が上の方の目にとまったらしい。企業スパイ――。それが、彼が受けた業務命令だった。
こうして幕を開ける物語は、しかし、決してスパイ小説ではないし、リーガルサスペンスでもミステリーでもない。
信頼とは何か? 答えは人それぞれ違うだろうし、そもそも、唯一絶対の正解など無いのかも知れない。『ラブカは静かに弓を持つ』は、その難問に対する安壇美緒なりの回答だ。
橘が挑むのは、2年に亘る長期間、素性を偽って生徒に成りすます異例の企てである。が、極端に人付き合いが苦手な彼が、潜入先で知り合う人間と昵懇になるとは考えにくく、当初は橘自身、それほど難しい仕事だとは思っていなかった。それが誤算――。
まずは講師の浅葉桜太郎。ハンガリー国立リスト・フェレンツ音楽院卒業という仰々しい経歴に似合わず、その性格は開けっぴろげで、無駄な衒いを感じさせず必要以上の遠慮も無く、生徒(=橘)が僅かに上達の兆しを見せるだけで、朗らかに声を弾ませる。
そして〈浅葉先生を囲む会〉。文字通り、浅葉と、浅葉にチェロを習っている5人の老若男女が、たまに集まって飲み食いするだけの他愛も無い会。当初は、上司に提出する報告のネタになる、ぐらいの気持ちで参加した橘だったが、皆でアンサンブルを組もうと誘われた時には、己の立場も忘れて快諾する。《当たり前のように自分の手元にもきれいなパスが回ってきたことが、どうしても嬉しかったから》。
そう。橘は人生で初めて、〝仲間〟として受け入れられる体験をする。
しかし舞台は、起承転結の転へと移る。即ち、いよいよ裁判が始まる。以降の筋書きは伏せるにしても、橘が激しく葛藤するのは想像に難くないだろう。
そんな時に彼は、以前から通っている不眠外来で、医師から意外な言葉をかけられる。3年にも亘る通院期間で初めて、子どもの頃のトラウマを打ち明けた橘に、医師は言う。《自分の話をしても大丈夫なんだって、いま橘さんは思うことができている。それって、いわゆる信頼です》。
信頼してくれてありがとう、と微笑む医師を前にして橘が誰を思い浮かべたか。そんなことは、言葉にするだけ野暮だろう。彼らと自分は、信頼という絆で結ばれかけていたのではないか? 自分は、生まれて初めて、赤の他人と濃密な関係を築きつつあったのではないか? そう悟った彼がどんな行動に出るか? そして、浅葉をはじめ、6人の〝仲間たち〟が何を思うか? 無論ここで明かす訳にはいかないが、最後の1行を目にした時に胸に充ちてくる温かさと言ったら、もう!
人物の感情を直接は語らずに、その周辺だけを描くに留めて、あとは読者の想像に委ねる。そんな表現がこの作家はデビュー当時からホントに巧い。加えて、発話者の表情や声質までもが心に浮かぶ活き活きとしたセリフ回しと、それによって人物がまとうリアリティ。その手腕に一層の磨きがかかってきた点も、忘れずに言及しておきたい。
今年の〈ナツイチ〉には前作『金木犀とメテオラ』が入ったし、安壇美緒が今、旬だ。
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