◎編集者コラム◎ 『赤ちゃんをわが子として育てる方を求む』石井光太

◎編集者コラム◎

『赤ちゃんをわが子として育てる方を求む』石井光太


『赤ちゃんを~』写真1
事件が明るみになるきっかけとなった菊田医師が出した新聞広告

 1970年代「赤ちゃんあっせん事件」の当事者としてマスコミによって「悪人」のレッテルが貼られた産婦人科医・菊田昇。その後、多くの命を救うこととなる「特別養子縁組」の法律が1980年後半に制定されたのだが、それがこの事件のおかげだったということを知る人は少ない。あっせん事件後も国を相手に不屈の闘志で闘い抜き、法を勝ち取った一人の医師の実話をもとにした評伝小説

「赤ちゃんあっせん事件」とは、なんだったのか。
 現在、妊娠中絶をする期限は妊娠6ヶ月までと法律で定められているが、当時はいい加減なもので、妊娠後期になっても手術を施すことができた。それ故、母体の外に出してみると、呼吸を始めたり、泣き出したりする赤子もいたのだ。当時の産婦人科医は、生きて出てきた子を、自分の手で殺さなくてはならないという過酷な状況にさらされていた。
 そこで菊田医師は、生まれた赤ちゃんを子供を望んでいる夫婦に、密かに養子として縁組することに。その命のバトンは100組以上の夫婦へと繋がれた。
 しかし、これがマスコミよってこれが明るみになると、非合法なことをしでかした医師だと世間から批判を浴びる。これが世に言う「赤ちゃんあっせん事件」だ。

『赤ちゃんを~』写真2
カバーイラストは鈴木成一デザイン室で行われたイラストコンテストで優勝した花村信子さんによる。

 菊田医師のすごいところは、恐ろしいまでの世間の批判に全く動じなかったことだ。メディアで騒がれたことを逆手にとって、国を相手に、養子縁組を合法化して欲しいと訴え続けた。国会招致、医師会からの除名、書類送検……ここまでの責め苦を負うと、普通なら諦めてもおかしくない。だが、あらゆる困難にもその信念を曲げず、10年余りをかけ、1980年代後半、「特別養子縁組法案」を成立させた。その生き様に涙が溢れる。なぜ、菊田医師は信念を曲げずに、たった一人で闘い続けられたのか、それは彼の心に刻まれた幼少期の凄絶な体験があったからだった。一人の医師の人生を、この作品を通して辿って欲しい。

 解説は、TBS元アナウンサー、現在報道局勤務の久保田智子さん。ご自身の経験に照らして菊田医師の功績を紐解いてくださっています。

──『赤ちゃんをわが子として育てる方を求む』担当者より

赤ちゃんをわが子として育てる方を求む

『赤ちゃんをわが子として育てる方を求む』
石井光太

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