◎編集者コラム◎ 『作家の愛したホテル』伊集院 静

◎編集者コラム◎

『作家の愛したホテル』伊集院 静


『作家の愛したホテル』写真
印刷立ち会いの現場で心に響くメモ書きに出逢いました。
いつもありがとうございます。皆様のおかげで本は出来ます。

「本郷に美味しいイタリアンがある。いまからどうだ」

 鬼籍に入られる2年ほど前、当時あまり体調が優れず、引き籠もりがちだった私を気遣ってくださってか、先生は何度も突然食事に誘ってくださいました。

「いろいろ大変だナ。まぁ、もう一杯飲むか」

 これまで見たことのない郷土パスタが出てくるQで食事をした後、定宿の山の上ホテルに戻り、フロント横のロビーにあるソファに座り、バーノンノンのお気に入りのバーテンダーさんに「いつもの」とジン・リッキーを頼まれました。そして1杯飲み終わると、すっと立ち上がり、部屋に戻られ、少しすると戻って来られました。

「ところで、これ文庫にするか。なかなか評判のいい本だぞ」

 他社で刊行されていた単行本「作家の愛したホテル」を手にしながら、文庫化を提案してくださいました。

 かれこれ30年ちかく「美の旅人」シリーズを担当するなかで、何度かヨーロッパ取材に同行し、本書に登場するパリの定宿ホテル・ド・ヴィニーをはじめ、いくつかのホテルをご一緒した私にとっては、旅とホテルにまつわる大好きな紀行エッセイ集でした。

 突然の提案に「いいのですか、ありがとうございます」と二つ返事で答えていました。

 当時、スペイン、フランスに続く、三部作完結篇となる『美の旅人 イタリアへ』(2025年11月に未完の遺稿を収録して刊行)の執筆に取りかかってくださっていました。しかし2020年に大病をされてから、眼や手の不調を訴えられ、思ったように原稿が進まず、刊行が遅れていたことをとても気にされていました。

「眼の調子が悪いから、色がわからない。かつて見た絵の記憶を辿りながら書いている」と作家生命にかかわる極めて重大なことを、さらっとおっしゃる先生に、なにもお手伝いすることができない自分の不甲斐なさに胸が痛くなりました。

 そのようなご体調でありながらも、元気のない私を励まし、ホテルの入り口まで珍しく見送ってくださり、「ガンバレ」と軽くこぶしを握り、明るく声をかけてくださったその姿がいまなお深く脳裏に刻まれています。

 いま思えば、先生からの最後のプレゼントだったような気がします。

 その後も未刊行のままになっていた雑誌連載などの書籍化を次々と提案してくださいました。当時、先生はやはりどこかで残りの時間を意識されていた気がしてなりません。

 2023年11月24日から2年。やっと先生との山の上ホテルでの約束をひとつ果たすことができました。

 先生、天国でいいホテルに出逢えましたか?

 きっと夢のようなホテルのお気に入りのバーで、ジン・リッキーを飲まれているのでしょうね。長い間ありがとうございました。

 ──『作家の愛したホテル』担当者より


『作家の愛したホテル』
伊集院 静
吉野弘人『リッチ・ウォーターズ』
「推してけ! 推してけ!」第58回 ◆『サンクトペテルブルクの鍋』(坂崎かおる・著)